佐敷(さしき)小学校 [旧校舎] ・葦北高等女学校跡
『佐敷(さしき)小学校 』の旧校舎跡は、1875年(明治8年)から1887年(明治20年)まで熊本県葦北郡芦北町の「佐敷」の子どもたちが通った旧校舎の跡地です。
旧校舎跡地には「芦北町社会教育センター」と「佐敷武徳殿」があります。佐敷(さしき)小学校は、いつ移転したの?
佐敷村立佐敷小学校跡は、1887年(明治20年)に移転となりました。
1887年(明治20年)から、佐敷小学校校区の子どもたちは、〒869-5451 熊本県葦北郡芦北町道川内31に移転した校舎で学びました。
佐敷(さしき)小学校の校歌
旧校舎は、1887年(明治20年)までありましたが、その時はまだ校歌はありません。これは現在の佐敷小学校の校歌になります。
芦北の野坂の浦よ
父祖のあと承(う)くる誇りを身にしめて
日々に新たに学ぼうよ いざいざわれら
われらが学舎(まなびや)学舎学舎 佐敷小学校
2.山は理想よいや高き使命をかざす
名もしるき三太郎峠
われら呼ぶ進取の意気に挙(こぞ)りたち
越えてゆこうよ幾山河 いざいざわれら
われらが揺籠(ゆりかご)揺籠揺籠 佐敷小学校
3.川は恩寵(めぐみ)よ限りなき未来はぐくむ
朝夕にむすぶ藍川
産土(うぶすな)の愛の故郷(ふるさと)
友垣と永遠(とわ)に清らに伸びゆこよ いざいざわれら
われらが学園学園学園 佐敷小学校
佐敷(さしき)小学校 [旧校舎跡] ・葦北高等女学校のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 佐敷小学校 [旧校舎]・葦北高等女学校跡 |
住所 | 〒869-5441 熊本県葦北郡芦北町佐敷206−1 |
移転年月日 | 1887年(明治20年) |
沿革 | ●佐敷小学校 [旧校舎] 1790年(寛政2年)細川藩校として啓微堂創立。25人の藩士子弟の教育にあたる。 1872年(明治5年)学制改革で、啓微堂をそのままひきつぎ佐敷小の教育が始まる。これは芦北水俣をふくめて旧芦北郡内最初の公的教育機関。啓微堂の指南であった高藤正名が初代校長となる。(旧芦北郡とは水俣から日奈久までを含む) 1875年(明治8年)校舎移転(現在の芦北町社会教育センター) 1887年(明治20年)佐敷尋常小学校と改称。芦北高等小学校併設。現在地へ移転。 ●葦北高等女学校 |
佐敷(さしき)小学校の旧校舎があった場所
佐敷小学校の旧校舎は、佐敷花岡城があった山の麓にありました。
佐敷地区は、熊本県南部の八代海(不知火海)に面した海岸沿いの街で、国道3号線・肥薩おれんじ鉄道「佐敷駅」・南九州自動車道「佐敷インターチェンジ」・道の駅「芦北でこぽん」があります。
佐敷城(さしきじょう)は、 1588年(安土桃山時代・天正16年)に加藤清正によって作られたお城です。
1592年(安土桃山時代・文禄元年)、薩摩国(現・鹿児島県)の島津歳久の家臣であった「梅北国兼(うめきたくにかね)」が佐敷城を占拠したことと、1600年(安土桃山時代・慶長5年)に関ヶ原の戦いの飛び火で西軍方(小西氏・島津氏)に挟まれて包囲されたことなど、佐敷城は築城から12年の短期間で2度も攻撃にあっています。
その後、1615年(江戸時代・元和元年)に一国一城令(ひとつの国にひとつのお城だけ)が出されて、佐敷城はこわされてしまいます。
佐敷(さしき)町は旧城下町
しかし、佐敷城があった地区はその後も江戸時代から近世にかけて薩摩街道が通り、薬師堂・勝延寺・杉本院・大師堂・來迎寺・二尊寺・七軒長屋などお寺やお店が軒をつらね、元城下町としての賑わいをみせます。
旧佐敷小学校の跡は、社会教育センターになっていて旧の芦北町立図書館があった場所でもあります。
葦北高等女学校跡
社会教育センターが建つ前、この場所は1927年(昭和2年)に「葦北高等女学校」が創設されました。その後、1948年(昭和23年)に芦北農林学校と合併となり、熊本県立芦北農林高等学校に(場所:〒869‐5431 熊本県葦北郡芦北町乙千屋20-2)。1981年(昭和57年)には、芦北高等学校に改名され現在にいたります。
旧佐敷小学校の跡地近くには、芦北町登録有形文化財の「佐敷武徳殿(さしきぶとくでん)」があります。1937年(昭和12年)に建立された木造のこの建物は、柔道や剣道などの武術をおこなう武道場として建立されました。