国見(くにみ)分校跡 [大野小学校] 芦北町
『国見(くにみ)分校跡 』は、熊本県葦北郡芦北町の「国見地区(泥泪、杉園・葛俣)」の子どもたちが通った大野小学校の分校跡です。国見は旧漢字で「國見」とも書きます。
現在、国見分校も校舎は残されていて、跡地は「国見農村公園」として再利用されています。
国見(くにみ)分校は、いつ閉校したの?
大野小学校国見分校は、1972年(昭和47年)の3月に閉校となり創立72年の歴史に幕を閉じました。
1972年(昭和47年)4月からは、国見分校校区の子どもたちは、芦北町立「大野小学校」へ通っています。
国見(くにみ)分校の校歌
国見分校は、分校なので本校である「大野小学校」の校歌を高学年は歌いました。
豊けき郷に集い来て
朝な夕なに睦み合い
心のきずな深めなん
我等が大野小学校
2.天月臨む白木富士
なれ親しみし友垣と
倦まず弛まず励みつつ
未来を拓く人たらん
我等が大野小学校
3.急流とどろく球磨川の
もののふ勇む槍倒し
早瀬におどる若鮎の
実り溢るる学舎は
我等が大野小学校
国見(くにみ)分校跡 [芦北町] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 国見分校 |
住所 | 〒869-5443 熊本県葦北郡芦北町国見 |
閉校年月日 | 1972年(昭和47年) |
沿革 | 1899年(明治33年) – 大野小学校國見分校を創立。 1909年(明治42年) – 國見分校を新築 1952年(昭和27年) – 國見分校を新築 1961年(昭和36年) – テレビ設置 1972年(昭和47年) – 國見分校閉校し72年の歴史を閉じる。本校に合併し、児童はバス通学 |
国見(くにみ)分校があった場所
国見分校跡がある「国見地区」は、旧・泥泪村(どろめきむら)と旧・杉園村(すぎぞのむら)で、熊本芦北町の山間部の集落で大野盆地のなかにあります。
「国見山(標高969m)」と大関山(標高902m)の北の麓に位置する國見地区は、佐敷湾につながる佐敷川の水源から標高が高い順に大鋸の俣(おおがんのまた)・葛俣=葛ノ俣(くずのまた)・杉園(すぎぞの)・堂前(どうまえ)・泥泪(どろめき)と低くなっていき、そのまま旧・大野村であった松生(まつばえ)・中園(なかぞの)そして大野の中心地(標高204m)へと続いています。
大鋸の俣(おおがんのまた)
国見集落の一番上の、佐敷川最上流にあります。渓谷右手に岩場がみえ、そのさらに上の獣道のように狭い坂道を迂回していくと「役ノ窟(やくのくつ)」と呼ばれる、むかし修験者=しゅげんしゃ(山岳で修行する人)の修行場所があります。
また、大鋸ノ俣1153-2にはバイオトイレが完備された「OONO KUZUNOMATA-CAMP(大野葛の俣キャンブ場)」も有名です。
葛ノ俣(くずのまた)
葛ノ俣=くずのまた(葛俣とも書きます)は、大関山(標高902m)の麓の集落で、大関山は樫木でできており熊本芦北産木炭の「樫の木木炭・大関山」というブランドで、古くより炭窯で木炭が作られてきました。
この地域には、「葦北三十三観音」十八番札所の聖観音立像が祀られています。
杉園(すぎぞの)
杉園は、国見地区にあって旧・杉園村の中心地でした。上流の「葛ノ俣」も杉園村の中にありました。
杉園村は、東側が球磨郡・南西部に久木野(現・水俣市)・南東部は薩摩国(現・鹿児島県)の山野の布計(ふけ)が近く、集落の境界線が大関山・国見山を境にあることで、昔は領内巡視のお侍さんはこの杉園村から入ったといわれています。
泥泪(どろめき)
「泥泪」は難読漢字で、民俗学者であった柳田国男(やなぎだくにお)の著書『地名の研究』の中でも取り上げられていて、泥泪(どろめき)の泪をメキと読むのは珍しいとあります。
読み方からすると目(め)と木(き)という読みから、「相」の漢字がふさわしいのですがその「相」の漢字を避けて、泪を当て字にしていると書かれています。
こちらも旧泥泪村があった場所で、堂前(どうまえ)という集落に地元では「氏神様」と呼ばれて慕われている観音像がありました。
泥泪集落が、国見地区の北の端となり、そのまま隣接している大野(旧・大野村)の松生(まつばえ)・中園(なかぞの)の集落へと続いています。
国見(くにみ)分校跡 の史跡
芦北町立大野小学校の国見分校跡は、佐敷川が流れる杉園集落と泥泪集落の間の小高い丘の上にありました。
1972年(昭和47年)に閉校となってから50年以上経過しているのにまだ木造校舎として残っているのは奇跡といえるでしょう。
分校の校舎の中は区切りのない1つの大きな教室となっていて、低学年まで子供たちが学んで高学年は本校である「大野小学校」へと通学していたようです。
分校の敷地内には、すべり台もあり、当時の子どもたちが遊びまわった情景が目に浮かぶ「懐かしい遊具」として、残っていました。
近くに川が流れているので、プールはなかったと思いますが先生たち・地区の人たちが工夫して校舎のまわりに堀をつくって、池と川が流れていたような跡が見受けられました。
とても不思議な根元がもっこりと膨らんでいる木が、校内に植えられていました。
運動場だったところは、国見農村公園という看板とともに。地域の方が再利用されているようです。
校門を入ってすぐ左側に卒業製作のようなモニュメントと、休憩場所に最適な藤棚もあり、当時が偲ばれます。