大野(おおの)中学校跡 [芦北町]
『大野(おおの)中学校跡 』は、熊本県葦北郡芦北町の大野小学校・国見分校・白木小学校・告小学校校区の子どもたちが通った中学校跡です。
現在、大野中学校の校舎は現存していますが、再利用はされていないようです。
大野(おおの)中学校は、いつ閉校したの?
芦北町立大野中学校跡は、2014年(平成26年)の3月に閉校となりました。閉校時の「大野中学校」の全校生徒数は28名、開校から閉校までの卒業生の生徒数は、3,475名でした。
2013年(平成25年)11月17日には、閉校記念の文化祭もおこなわれ「絆」「笑」「輝」をテーマに思い出がつまったスライドショーで昔を懐かしみました。地域の名産をふんだんに使った「豚汁」も来客者にふるまわれたそうです。
2014年(平成26年)4月から、大野中学校校区の子どもたちは、芦北町立「佐敷中学校」へ通っています。
大野(おおの)中学校の校歌
朝空に 光る國見よ
ここに集う 我らの夢を 遠く呼ぶ
ああ清らなる このふるさとに
眉あげて ともに愛ばむ
大野 大野 大野中学
2.城跡に 匂う春風
市野瀬の 緑の杜よ
ここに集う 我らの希望を 高く呼ぶ
ああ豊かなる このふるさとに
溌剌と 体 鍛えむ
大野 大野 大野中学
3.真清水の 匂う清流
アンゼラスの 鐘の音色よ
変わらざる 愛と真理を 強く呼ぶ
ああ輝ける このふるさとに
目をあげて 歓び生きむ
大野 大野 大野中学
大野(おおの)中学校跡 [芦北町] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 大野中学校 |
住所 | 〒869-6306 熊本県葦北郡芦北町大字市野瀬6-1 |
閉校年月日 | 2014年(平成26年) |
沿革 | 1947年(昭和22年)4月16日 – 大野村立大野中学校設立認可 1947年(昭和22年)4月22日 – 白木小学校にて開校式。並びに第1回入学式 1949年(昭和24年)4月22日 – 市野瀬650番地に校舎新築移転 1950年(昭和25年)3月21日 – 新校舎落成 1955年(昭和30年)- 葦北町立大野中学校と改称 1963年(昭和38年)12月2日 – 市野瀬6番地1に校舎新築移転 1963年(昭和38年)12月9日 – 新校舎落成 1970年(昭和45年)- 芦北町立大野中学校と改称。体育館落成 1973年(昭和48年)- プール完成 1990年(平成2年)- へき地一級指定 2014年(平成26年)- 芦北町立佐敷中学校へ統合のため閉校 |
大野(おおの)中学校があった場所
大野中学校があった場所は、1955年(昭和30年)に、佐敷町と吉尾村が合併して「葦北町」ができるまで、大野村(おおのむら)として自治体があったところです。熊本県葦北郡には八代市にも「大野」という地名が存在していますが、こちらは芦北町と久木野(現・水俣市)の町境の大関山(標高902m)の麓にある「大野盆地」の地域で、佐敷川上流に沿って集落が点在しています。
大野中学校の校区も、1889年(明治22年)町村制施行で大野村となった元(塩浸村、白木村、天月村、白石村、告村、市野瀬村、大野村、国見村)集落の場所と重なります。
大野の中心街
1955年(昭和30年)まで、大野村の中心で役場があったところです。
現在は、大野小学校・大野屋(スーパーマーケット)、史跡は「孝女 西屋農(にしやの)の碑」、本村のお地蔵様、中園(なかぞの)集落の観音様などあり、特に大野松生(まつばえ)集落の十一面観音立像は『葦北三十三観音』の十七番札所にも選ばれています。
本村(もとむら)を中心にして、南へ中園・松生と続き、泥泪からは旧・国見村となります。
市野瀬(いちのせ)
大野集落の北側には、旧市野瀬村であった市野瀬・祝坂集落があり、市野瀬阿蘇神社の場所は相良家臣の市野瀬又右衛門が城主だった「市野瀬城」の跡でもあります。
市野瀬の西には、塩浸(しおひたし)の集落があり、こちらも葦北三十三観音霊場の二十番札所で「聖観音座像」があります。
天月(あまつき)
市野瀬の北には、旧天月村であった才木・長沢の集落があり、大野保育園・天月神社・肥後大野郵便局・グループホーム慈愛・さいき美容室と、道の駅「大野温泉」があります。
白木(しらき)
天月のすぐ上(北側)には旧白木村であった上白木・下白木の集落があり、旧白木小学校(現・アクアピア熊本工場)、葦北三十三観音の十二番札所の上白木の観音様もあります。
白石(しらいし)
白木集落の東の山を越えると、旧白石村であった白石集落があり、球磨川流域に出ます。肥薩線「白石駅」や白木小学校白石分校などの史跡もあります。
告(つげ)
白石を球磨川沿いに南下していくと、旧告村(告・中告・上告・漆川内・平沢津・桑沢見)があり、球磨村との町境になっています。かつては、告小学校もありました。
鎌瀬の集落には、宿泊施設「球泉洞休暇村」が芦北町告の住所で存在しますが、経営は球磨村と思われます。
球磨川の支流である漆川内川沿いには、漆川内(うるしかわうち)・平沢津(ひらそど)の小集落があり、漆川内には葦北三十三観音の十五番札所の観音様があります。
漆川内川のさらに上流にいくと、峠を境に大野中心地と隣接していますが「桑沢見(かんそめ)」という山間の集落があり、お茶の栽培が盛んで茶葉専門店もあります。
国見(くにみ)
大野中心地を南へ進むと、佐敷川の最上流の元国見村であった泥泪(どろめき)・杉園(すぎぞの)・葛俣(くずのまた)の集落があります。標高は300mを越えてきますので、大関山(標高902m)の麓の村として、昔から製炭(木炭をつくる)の仕事が生業としてあったそうです(現在も販売しています)。
最上流の大鋸の俣(おおがんのまた)は大野キャンプ場や役ノ窟(やくのくつ)の史跡があり、葛ノ俣集落にも葦北三十三観音の十八番札所「聖観音立像」があります。
かつては、大野小学校の国見分校も存在していました。
大野(おおの)中学校跡 の史跡
芦北町立大野中学校は、1947年(昭和22年)に白木小学校の場所で開校式をおこないましたが、1949年(昭和24年)には、市野瀬650番地に校舎を移転しました。
体育館と校舎です。こちらの場所には1963年(昭和38年)に校舎新築とともに移転しています。
外側からは見えないのですが、中庭に入ると要塞のように鉄筋コンクリート2階建ての校舎がカギカッコのように曲がって奥へと続いています。
ひとつひとつの教室が、天井が高くゆったりと授業ができたのではないでしょうか?
立派なプールが運動場の奥にあり、小高い丘に建っているので大野集落が見渡せます。
プールの脱衣所の壁には、子どもたちが描いた絵が残っています。
運動場の片隅に、運動会のときの白組と紅組のドラム缶とサッカーボールが置いてあり、当時をしのばせてくれます。
遠方からきていた子供たちがとめていた駐輪場と、イチョウの木が裏庭にありました。
体育館のさらに奥には別棟の平屋の建物があり、木工などしていたようです。
校歌にも登場する「アンゼラスの鐘」です。