吉尾(よしお)小学校跡 [芦北町]
熊本県

吉尾(よしお)小学校跡 [芦北町]

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『吉尾(よしお)小学校跡 』は、熊本県葦北郡芦北町の「吉尾地区(吉尾・市居原・箙瀬・上蔀)」と「海路・高田辺・内木場・上原(1994年海路小休校から)」の子どもたちが通った小学校跡です。

現在、吉尾小学校の校舎跡は校舎が現存していますが、再利用はされていないようです(令和6年10月現在)。

吉尾(よしお)小学校は、いつ閉校したの?
吉尾(よしお)小学校は、いつ閉校したの?

出典:吉尾小学校の閉校式

芦北町立吉尾小学校跡は、2022年(令和4年)の3月に閉校となりました。

閉校式は、2月20日日曜日に一般の参加者を校区内在住の方に限定して開催されました。

在校生4名は、大好きな吉尾小学校を「キャンプ場」として再利用してほしいと来賓者の前で発表し、閉校記念碑の除幕式も校舎前でとりおこなわれ、創立147年の歴史に幕を下ろしました。

2022年(令和4年)4月からは、吉尾小学校校区の子どもたちは、芦北町立「佐敷小学校」へ通っています。

吉尾(よしお)小学校の校歌
1.緑したたる 山峡の
吉尾の里の 朝霧や
清く流れる 球磨川は
我等の心を 洗うなり
おお芦北の 吉尾小

2.我によき友 よき師あり
やさしき父母の 恵あり
このよき里の 学舎に
はげむ我等の 楽しさよ
おお芦北の 吉尾小

3.心身共に みがきつつ
おおしく進まん 我が友よ
ひかり輝く 学舎に
なさん我等の つとめあり
おお芦北の 吉尾小

吉尾(よしお)小学校跡 [芦北町] のデータ

吉尾(よしお)小学校跡 [芦北町] のデータ

出典:吉尾小学校閉校記念碑

住所・閉校年月日・沿革
名称 吉尾小学校
住所 〒869-6212 熊本県葦北郡芦北町吉尾51番地
閉校年月日 2022年(令和4年)
沿革 1875年(明治8年) – 箙瀬に公立小学校創立。大岩分教場設置。
1881年(明治14年) – 元5番区に吉尾小学校設立。黒岩に分校、上原に出張所を置く。
1889年(明治22年) – 学制改革により箙瀬小学校・黒岩分校を廃止し、吉尾尋常小学校と称し、大岩・海路に支校を置く。
1892年(明治25年) – 再び学制変更により、大岩支校は独立し、海路支校は吉尾小学校分教室となる。
1906年(明治39年) – 海路分教室が独立する。
1921年(大正10年)- 吉尾字吉尾にあった校舎を廃止し、新築移転する。
1922年(大正11年)- 高等科を併設し、吉尾尋常高等小学校と改称する。
1929年(昭和4年)- 4学級編制が5学級編制となる。
1934年(昭和9年)- 学校園(茶園)の設置
1938年(昭和13年)- 校旗が制定される。
1939年(昭和14年)- 学級増加となり、学級数は7、教員数7名となる。
1941年(昭和16年) – 吉尾国民学校と改称。
1947年(昭和22年) – 吉尾村立吉尾小学校となり、同時に吉尾村立吉尾中学校を併設する。
1952年(昭和27年)- 仲よし郵便局の設置
1953年(昭和28年)- ミルク給食開始
1955年(昭和30年) – 町村合併により葦北町立吉尾小学校と改称する。
1962年(昭和37年)- 創立80周年記念式典。ピアノ・テレビ校区民より寄贈。
1964年(昭和39年)- 新校舎完成、鉄筋2階建て14教室。
1965年(昭和40年)- 運動場排水溝(PTA)・花壇・泉水完成。
1969年(昭和44年)- 気象観測場設置。鳥小屋・うさぎ小屋・堆肥小屋完成。
1970年(昭和45年)- 芦北町立吉尾小学校と改称
1973年(昭和48年)- 玄関前舗装工事完成
1976年(昭和51年)- 創立100周年記念式典挙行。記念碑建立。
1978年(昭和53年)- プール完成
1980年(昭和55年)- 全学級が複式となる(児童数22名)。
1982年(昭和57年)- 豪雨のため臨時休校。道路決壊箇所が多く、児童の登校・職員の出勤が不能となる。
1986年(昭和61年)- 標準服(夏)制定。体力づくりのため「のぼり棒」設置。
1987年(昭和62年)- 教育園・花壇の縁石工事。
1992年(平成4年)- 体育館完成。
1993年(平成5年)- 球磨川・吉尾川が大雨により氾濫。箙瀬が冠水。温泉地区の道路等が決壊。
1994年(平成6年)- 校舎大規模工事竣工。旧海路校区、吉尾小学校へ編入される。ゲンジボタルの飼育を本格的に開始。
1995年(平成7年)- 大雨による増水・崖崩れのため臨時休業。
1996年(平成8年)- 大雨により箙瀬冠水。温泉地区の道路不通。
1999年(平成11年)- 台風18号来襲のため臨時休業。和田口付近は冠水。湧水閣崖崩れのため通学路変更。停電・断水が続く中運動会を実施する。
2000年(平成12年)- 海路小校区の新1年生3名が本校へ入学。スクールカーで登校。
2001年(平成13年)- 新入学児童がいないため、入学式実施なし。インターネット通信開始。
2004年(平成16年)- 佐敷小学校との交流授業がはじまる。
2012年(平成24年)- 吉尾川が氾濫したため、体育館へ避難。箙瀬地区児童2名が球磨川増水のため登校できず。
2015年(平成27年)- 台風15号の被害甚大。運動場倒木、フェンス倒壊、図書室窓の破損、体育館雨漏り、通学路も倒木のため交通遮断、電気・水道も遮断
2017年(平成29年)- 激しい雷雨による電気設備の破損(教室クーラー、チャイム、体育館ブレーカー等)
2019年(令和1年)- 光回線設置。タブレットPC、iPadが配備される。
2020年(令和2年)- 新型コロナウィルス感染防止のため、在校生不参加の卒業式、豪雨被害により臨時休業、避難所として校舎と体育館を開放。
2022年(令和4年)3月 – 芦北町立佐敷小学校へ統合

吉尾(よしお)小学校があった場所

吉尾(よしお)小学校があった場所

吉尾地区の地理 [出典:農業集落境界の閲覧]

熊本県葦北郡芦北町立「吉尾小学校」があった場所は、吉尾(よしお)・市居原(いちいばる)・箙瀬(えびらせ)・上蔀(うわしとみ)といって、江戸時代はそれぞれ村があり、1874年(明治7年)ごろまでには、それらの村が合併して「吉尾村」となりました。

その後、1889年(明治22年)の町村制施行で、大岩村・黒岩村・上原村・海路村・箙瀬村・旧吉尾村が合併して、再び新設「吉尾村(昭和30年まで)」としての大きな自治体になりましたが、小学校はそれぞれ大岩小学校・海路小学校・吉尾小学校と別々で存在していました(分校は、海路小学校上原分校)。

芦北町といえば「八代海」に面した海のイメージが強いですが、吉尾は人吉盆地を貫流する球磨川流域の町として、歴史的にも隣町である「球磨村」との関わりが深いです。

理由は、そのむかし熊本県南部の球磨川流域最大の都市「人吉」には相良家(さがらけ)のお殿様(大名)が住んでいて、この一帯を相良藩が治めていたからです。

参勤交代=さんきんこうたい(大名が江戸に1年ごとに行く制度)など、相良藩(人・物流を含む)が人吉から球磨川をぬけて、八代の海側に抜けるための要衝の町(温泉・旅館)として、ふるくから栄えていたのが吉尾地区となります。

上蔀(うわしとみ)

上蔀とは、めずらしい地名ですが蔀(しとみ)は平安時代から、雨風・日光をよけるため、住居や社寺の格子を取り付けた板戸のことをいいます。

上蔀の地名の初出は、1639年(江戸時代・寛永16年)の徳富文書の中で「上志とみ村」と記載がありますので、その後の当て字の可能性が高いです。

上蔀集落は、対岸(川を渡った先)の球磨村にも存在していて、中世相良藩領のときは同一生活圏だったと推測されています。

もっと細かくいえば、上蔀は大尼田の豪族「浅野玄蕃」が蒙古(モンゴル)襲来でたてた手柄(ほうび)に分け与えられた土地(知行地)だったことで知られています。

箙瀬(えびらせ)

1874年(明治7年)に上記の上蔀村と合併したのが箙瀬(えびらせ)です。

この箙瀬も、「上蔀」と同じく球磨川をはさんだ対岸の球磨村「箙瀬」が同集落として存在していて、川を中心に左岸が芦北町箙瀬、右岸が球磨村の「神瀬箙瀬」となり、秋になると阿弥陀堂でお祭りも開催されます。

江戸時代に入ると、すでに葦北郡田浦手永に属され、番所(警備や見張りのために番人がおかれた検問所)もありました。

中世は、上蔀と同じく大尼田浅野家の知行地であったようです(浅野家代々覚書より)。

市居原(いちいばる)

球磨川の支流、吉尾川の対岸に集落をもち、江戸時代は「市居原村」として存在しましたが1874年(明治7年)に吉尾村に入りました。

現在は吉尾という大きなくくりの「市居原」集落は、吉尾温泉共同浴場・湧泉閣(旅館)・高野屋(閉業)など温泉が有名な地区です。

吉尾郵便局・吉尾デイサービスセンター・旧吉尾小学校などもあり明治の合併後「吉尾村」の中心であったことがわかります。

吉尾(よしお)

吉尾地区の中心地であり、市居原地区の左隣に位置する集落です。

吉尾集落の裏には標高120mの山がそびえ、室町時代に相良家の家臣である「吉尾大学」と息子の「塩山浅之助」が居城していた「吉尾城」があったとされています。

江戸時代に作られた「元禄絵図」には、北部にある大河内村(現・芦北町大岩)のうち吉尾本村と記されています。

市居原地区と県道272号線でつながっていますので、その沿道に吉尾商店・旧吉尾中学校(現・芦北町吉尾出張所)などの施設があり、さらに西にいけば大尼田地区です。

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

熊本県葦北郡芦北町立「吉尾小学校」は、球磨川流域の山間部の小学校として、2022年(令和4年)まで子どもたちの学び舎として、校舎も活用されていました。

1964年(昭和39年)に建てられた鉄筋2階建てで14の教室がありますが、築後60年も経っていると思えないデザインです。1994年(平成6年)に大規模な改築(リフォーム)がされたようですね。

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

校門の入口付近は体育館へと続くオシャレなエントランスがあり、よく考えられたデザインだと思います。

この新しい体育館は、1992年(平成4年)に完成しました。

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

校舎の裏側にプールが併設されていました。

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

1978年(昭和53年)にプールが完成していますので、その頃にはかなり生徒数が減っていたのでしょうか?細長い少人数(二人用?)が利用するデザインになっています。

すぐ近くに吉尾中学校の大きなプールがあるので、そこを使っていたかもしれません。

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

2階の右側からみた校舎です。運動場がひろびろととってありますね。

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

左側正面からみた吉尾小学校の校舎です。大阪万博(1970年)のときの「太陽の塔」を模したような卒業製作がみえます。

吉尾(よしお)小学校跡 の史跡

正面右側から、校舎を見てみました。こんどはパンダの卒業製作があります。

1972年(昭和47年)にジャイアントパンダが日本に初来日したときにブームが起きたのでその時の卒業製作でしょうか?

その左横には、校歌が刻まれた閉校記念碑が建立されました。

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