海路(かいじ)小学校跡 [芦北町]
『海路(かいじ)小学校跡 』は、熊本県葦北郡芦北町の「海路地区(海路・高田辺・上原・内木場)」の子どもたちが通った小学校跡です。
現在、海路小学校の校舎跡は校舎は現存していますが、再利用はされていません。
海路(かいじ)小学校は、いつ閉校したの?
芦北町立海路小学校跡は1994年(平成6年)3月に休校となり、2022年(令和4年)の3月に閉校となりました。
1994年(平成6年)3月26日の午前10時からは「海路小休校式」が開催され、ステージ向かって左側の赤いバラ席には町議員や郵便局長・校区の自治体の区長さんが出席し、ステージ向かって右の白いバラ席にはかつての校長と教育委員長、そして宮原小学校・鏡西部小学校・吉尾小学校・吉尾中学校・大尼田小学校・大岩小学校・告小学校の校長も出席され、盛大におこなわれました。
海路小校区の子どもたちは、1994年(平成6年)4月から吉尾小学校へ編入し、2022年(令和4年)4月からは吉尾小校区の子どもたちとともに、芦北町立「大野小学校」へ通っています。
海路(かいじ)小学校の校歌
谷間に集う 同胞は
正しく強く 朗らかに
磨き錬えて 光なす
雄々しく進む 海路小
2.紅葉の里に 唄う鳥
せせらぎ傍に 河鹿なく
吾等が目標 絶え間なく
磨き錬えて 光なす
平和を築く 海路小
海路(かいじ)小学校跡 [芦北町] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 海路小学校 |
住所 | 〒869-5422 熊本県葦北郡芦北町大尼田1645 |
閉校年月日 | 2022年(令和4年) |
沿革 | 1880年(明治13年)- 大岩小学校海路分教場創立。上原分教場設置。 1891年(明治24年)- 吉尾尋常小学校海路分教場となる。 1905年(明治38年)- 海路尋常小学校となる。 1941年(昭和16年)- 海路国民学校と改称。 1947年(昭和22年)- 吉尾村立海路小学校と改称。 1955年(昭和30年)- 葦北町立海路小学校と改称。 1970年(昭和45年)- 芦北町立海路小学校と改称 1991年(平成3年)3月 – 上原分校休校。 1994年(平成6年)3月 – 休校し、吉尾小学校へ編入。 2022年(令和4年)3月 – 吉尾小学校閉校と同時に、大野小学校へ編入。 |
海路(かいじ)小学校があった場所
海路小学校があった場所は、江戸時代にはそれぞれ海路(かいじ)村・高田辺(こうたべ)村・内木場(うちのこば)村・上原(うわばる)村として存在していた地域です。海路(かいじ)
1889年(明治22年)まで、海路村として旧・海路村・内木場村・高田辺村の中心をなしていた集落です。
1639年(江戸時代・寛永16年)の徳富文書にはじめて「海路」の地名が登場します。
海路とは、「海への路(みち)」と書きます。この海路は球磨川から支流である「平谷川」の流入ポイントにあり、そのまま平谷川にそって上原(うわばる)を越えれば、海側の「田浦(たのうら)」に出れるのです。
また、二見(八代の海側)へも出れる起点となっているため、江戸時代にには陸口番所が置かれていました。
海路迫に神社(鳥居とほこら)がありますので、昔はこちら側にもとの集落がありその後、球磨川から平谷川への支流付近に移動したと考えられています。
集落の中心には、JR九州肥薩線「海路駅」がありますが、1958年(昭和33年)に瀬戸石ダムが建設されてからは、ダム湖となったため多数の住人が移転してしまいました。
2020年(令和2年)7月の豪雨により、球磨川周辺が甚大な被害を被り、海路集落もほぼ家屋も倒壊し、現在近くの高田辺会館が海路地区の集まり場所となっています。
高田辺(こうたべ)
海路を川沿いに北にあがった元高田辺村の集落です。濁音をいれて「こうだべ」とも発音されます。
瀬戸石ダム(水力発電所)のすぐ付近に位置し、同県坂本町川嶽「瀬戸石」の町境の地区でJR九州肥薩線の「高田辺トンネル」が通っています。
近隣の箙瀬(えびらせ)・上蔀(うわしとみ)地区と同じく、中世は大尼田に住む「浅野家」の知行地(戦争で手柄をたてて、相良氏よりご褒美でいただいた土地)でした。
内木場(うちこば)
内木場は、海路の西にある集落で古くは「内野木場」と書かれた旧内木場集落で、地元では「うちんこば」とも発音されたりします。
吉尾地区の上蔀(うわしとみ)を北にあがり球磨川から「桑川内川」の支流沿いに山を入っていったところ、標高200mの盆地のなかに内木場はあり、現在は大迫集落と呼ばれています。
上原(うわばる)
上原は、球磨川から海路集落のある平谷川沿いを3㎞ほどのぼっていった旧上原村とよばれた山中の集落です。
途中には、観光地の「権現の滝」と、むかし落人(戦争に負けて逃げてきた人)が自分の存在を隠すために、赤ちゃんを捨てたという伝説がある「嬰児淵(あかごふち)」もあります。
集落内の名水「上原の井川」は有名で、遠方からも水を汲みにこられるそうです。
西に出れば、黒岩地区(小木場・脇ノ迫)があります。
海路(かいじ)小学校跡 の史跡
海路小学校の校舎は、海路集落のある球磨川から支流の平谷川に入ったすぐ右側に建てられています。
1880年(明治13年)に創設された歴史ある学校で、当初は大岩小学校の分校(分教場)として開設され、その後、海路村の南にある「吉尾村」と合併したため吉尾小学校の海路分校となりました(当時は尋常小学校)。
しかし人口増加にともない生徒数が増え、1905年(明治38年)には独立した「海路小学校」として改称となりました。
海路地区は、目の前がすぐ球磨川で背面は岩山なのでなかなか場所がないなか、校地の確保が難しかったと想定されます。
ご覧のように、鉄筋コンクリートで4階建てのように見えますが中は上段が「体育館」になっている珍しいケースの校舎で、川沿いの急斜面の限られた敷地の校舎によくみられます。
横からみた、海路小学校校舎です。かなり高台に建設されたのですが「球磨川」の氾濫で幾度も被害にあっています。
考える、やさしい、やり抜く、海路っ子と書かれた看板があります。
明治から昭和の戦後まではたくさんの人が住まれていた「海路」ですが、戦後まもなく「瀬戸石ダム」の建設がもちあがり、周辺の集落の人たちの漁場・流筏(いかだ)交通の補償が整ったため、着工されました。
それを機に多くの人が海路地区(海路に限らず球磨川流域)を去り、人口減少に歯止めがきかなくなり1994年(平成6年)に休校となりました。
2020年(令和2年)の熊本豪雨が最大の痛手で、JR九州の肥薩線である「海路駅」など周辺の線路が大損害を受け、現在も不通となっています(令和6年10月現在)。