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豊原(とよはら)小学校 [令和7年3月閉校] 柳川市立
『豊原(とよはら)小学校 』は、福岡県柳川市の「豊原小校区(大和町徳益・大和町豊原・大和町塩塚)」の子どもたちが通っている小学校です。
豊原(とよはら)小学校の閉校式はいつ?
柳川市立豊原小学校は2025年(令和7年)3月末で閉校になります。
3月8日(土曜日)には豊原小感謝祭が開催され、10時半から12時までは在校生による「学習発表会」、12時から18時までは、イベントコーナー、グルメショップコーナーが開催されます。
また、豊原小の閉校式は3月17日(月曜日)の午前9時からおこなわれます。
4月1日から、豊原(とよはら)小の子どもたちは、同年閉校した六合小学校・大和小学校・有明小学校・皿垣小学校・中島小学校の子どもたちとともに新設開校した「やまと小学校」へ通います。
豊原(とよはら)小学校の校歌

豊原小学校の校章 [柳川市]
はるかにかすんで かげろうがもえる
ここでつぼんだ つばきの花よ
あかく 正しく ひとりでもえろ
ああ われら 豊原小学生
2.岸の柳 うきぐさの花
ゆれてかがやく ひかりのくによ
ここでかえった 一羽のつばめ
みんな友だち なかよくあそべ
ああ われら 豊原小学生
3.稲のみどり ポプラのそよぎ
空をながれる 大きな雲も
ここで生まれた 小さな虫も
つよく雄々しく 生きよと歌う
ああ われら 豊原小学生
4.麦がのびる なの花が咲く
ゆたかな故郷に また春がくる
ここでそだった あなたもぼくも
大きな世界の 春のひとりだ
ああ われら 豊原小学生
豊原(とよはら)小学校 [柳川市] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 豊原小学校 |
住所 | 〒839-0242 福岡県柳川市大和町豊原125 |
閉校年月日 | 2025年(令和7年) |
沿革 | 1872年(明治5年)9月 – 四十丁村出店に修誠小学校を設立。 1876年(明治9年)1月 – 塩塚小学校と改称。4月 – 四十丁小学校と改称。 1884年(明治17年)1月 – 榊景太校長就任。4月 – 児童増加し、校舎狭くなり南西に二階建て一棟増築。 1886年(明治19年)12月 – 四十丁尋常小学校と改称。 1888年(明治21年)4月 – 四十丁小学簡易科に改む。 1892年(明治25年)4月 – 塩塚尋常小学校と改称する。 1898年(明治31年)全校舎改築。 1907年(明治40年)9月 – 豊原尋常小学校と改称する。 豊原実業補習学校を附設する。 1908年(明治41年)4月 – 尋常科六学年制度となる。 1909年(明治42年)4月 – 児童数 298 人。 1921年(大正10年)児童数 327 人。(昭和3年)10月 – 豊原実業補習学校を廃止する。 日本でラジオ体操はじまる。 1935年(昭和10年)児童数 372 人。2月 – 奉安殿落成。 1936年(昭和11年)11月 – 学校前の道路が拡張される。 バス大川~大牟田へ通る。 1947年(昭和22年)4月 – 豊原小学校と改称。 1953年(昭和28年)筑後地区大洪水となる。浦島橋流れる。 1954年(昭和29年)創立80周年記念式典をおこなう。 1957年(昭和32年)4月 – 下塩塚区を校区に編入。 1958年(昭和33年)職員室、用務員室、宿直室を新築。 1960年(昭和35年)完全給食実施。 校歌制定。 1963年(昭和38年)児童数 461 人。 1966年(昭和41年)子供プール新築。 1967年(昭和42年)4月 – 北校舎新築。 及職員室、宿直室、公民館撤去。 1968年(昭和43年)体育館新築。 郷土地理園完工。 1969年(昭和44年)4月 – 大プール新築。 運動場拡張。 1971年(昭和46年)児童数 335 人。 1972年(昭和47年)校舎北側の田を買収。 1973年(昭和48年)11月 – 旧校舎、職員室、給食室解体。12月 – 鉄筋三階建新校舎起工式。 1974年(昭和49年)7月 – 新校舎竣工。10月 – 交通教室できる。創立百周年記念式典をおこなう。 1975年(昭和50年)校旗制定。(100 周年事業)交通安全優良校表彰。 1995年(平成7年)体育館竣工、落成式。 2005年(平成17年)3月 – 大和町・三橋町・柳川市の 1 市 2 町合併により新柳川市 2012年(平成 24年)12月 – タブレット端末など整備(平成28年)8月 – 北校舎女子トイレ改修工事 洋式便器設置 2018年(平成30年)4月 – 特別支援学級(情緒・自閉症)くすのき学級新設 学童保育所「ゆたかきっず」ミーティングルーム移設 2019年(平成31年)2月 – 児童用・職員トイレすべて洋式便器設置 改修工事 2025年(令和7年)3月31日 – 六合小学校・大和小学校・有明小学校・皿垣小学校・中島小学校と合併するため閉校、4月から新設「やまと小学校」が開校 |
豊原(とよはら)小学校がある場所

豊原小校区 [出典:学区マップ]
豊原(とよはら)とは?
豊原(とよはら)校区は、福岡県柳川市の一部で山門郡にあった塩塚村(しおつかむら)とほぼ重なります。
塩塚は、海の近くであることと「塩塚鎮貞(しおつかしげさだ)」が塩塚城に居城していたことから、その地名がついたといわれています。
南側には、柳川市役所大和庁舎がある大和町の中心街があり、さらに南側はは江戸時代から干拓=かんたく(湖沼や海などの水底を堤防などで囲み、水を抜いて陸地にすること)地がひらけていた「皿垣開」地区になります。
東側は大和町六合(ろくごう)、北東側は三橋町の垂見、北側は三橋町の今古賀・藤吉、西側は塩塚川をはさんで、佃町・下宮永町に隣接しています。
豊原の歴史
豊原小学校がある「豊原(とよはら)」は、江戸時代には上塩塚(かみしおつか)村・下塩塚(しもしおつか)村・豊原村・徳益村があった場所です。
上塩塚村と下塩塚村は、矢部川の支流である塩塚川の左岸にある集落でした。
徳益村も、1802年(江戸時代・享和2年)には北徳益(きたとくます)村と南徳益(みなみとくます)村に分かれていたようです。
1876年(明治9年)の町村統合によって、上塩塚村と下塩塚村が合併し「塩塚村」、南徳益村と北徳益村が合併し「徳益村」となりました。
1889年(明治22年)には町村制の施行によって、豊原村・塩塚村・徳益村は、栄村の一部と合併し新設「塩塚村」となります。
1907年(明治40年)、塩塚村は、鷹尾村・有明村と合併し「大和村」が発足します。
1952年(昭和27年)、大和村が町制施行して「大和町」になります。
2005年(平成17年)、大和町は三橋町と柳川市と合併し、新設「柳川市」が誕生します。
柳川市の豊原にある有名なもの
豊原小学校があった豊原小校区には、江戸時代のふるい史跡が多く残っています。
豊原一里石
1604年(江戸時代・慶長9年)に江戸幕府が、東海道・東山道・北陸道の三街道に「一里塚」を建立しました。
一里(約4㎞)ごとに目印=里程標(りていひょう)をおいていき、そこには松の木や杉の木、はたまた旅の休憩所なども設けられました。
一里石は、豊原小学校前に置かれ「柳河より一里」と刻まれています。
間垣橋
現在、「高橋(たかばし)」と呼ばれている下塩塚にある橋で、柳川市の指定文化財に登録されています。
逆井手地蔵尊
大和町徳益の下田橋南横にある「逆井手堰(さかいてぜき)」を記念したお地蔵様で、塩塚川を堰止め(せきどめ)その逆流した水の恩恵を受けたそうです。