仁田原(にたばる)小学校 [平成19年閉校] 星野村立
福岡県の廃校・校跡

仁田原(にたばる)小学校 [平成19年閉校] 星野村立

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『仁田原小学校』は、福岡県八女市の星野村「上郷(かみごう)地区」の子どもたちが通っていた小学校です。

仁田原小学校跡地は、現在「上郷地域交流センター」として活用されています。

仁田原(にたばる)小学校の閉校式はいつ?
仁田原(にたばる)小学校の閉校式はいつ?

仁田原小学校閉校記念碑

星野村立仁田原小学校は、2007年(平成19年)3月31日で閉校になりました。

同年4月1日より、仁田原小校区の子どもたちは「星野村立星野小学校」に通っています(現在、八女市立)。

仁田原(にたばる)小学校の校歌
1.朝だ 耳納だ
かがやく 雲
ひかれ ひかれ 心の黄金
まじめに 学んで
明るく 歌うよ
星野の 仁田原
仁田原 小学校

仁田原(にたばる)小学校 [八女市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 仁田原小学校
住所 〒834-0201 福岡県八女市星野村15880
閉校年月日 2007年(平成19年)
沿革 1878年(明治11年)11月 – 仁田原小学校創立。
1897年(明治30年)12月 – 現在地に校舎を新築。
1959年(昭和34年)2月 – 講堂を新築。3月 – 創立80周年を迎える。
1963年(昭和38年)1月 – 火災により十教室を焼失。8月 – 十教室を再建。
1968年(昭和43年)9月 – 校歌を制定。
1978年(昭和53年)11月 – 創立100周年を迎える。
2007年(平成19年)3月31日 – 星野小学校に統合のため閉校。

星野村立仁田原小学校の校舎

星野村立仁田原小学校の校舎

仁田原小学校の2階建ての木造校舎です。非常によい状態で保存されていました。

星野村立仁田原小学校の校舎

左側から見た、仁田原小の校舎です。湿気の少ない高台にあるため、カビなどによる経年劣化があまりみられません。

星野村立仁田原小学校の校舎

教室の様子です。窓枠も木製で昭和30年代~40年代にタイムスリップしますね。

星野村立仁田原小学校の校舎

校舎の裏側は、2階中央部から連絡橋がでていました。

星野村立仁田原小学校の校舎

木造校舎の右側(校舎からみて西側)には、講堂がありました。

星野村立仁田原小学校の校舎

木造と思われる講堂(室内運動場)の中は、鉄筋の体育館とあまりかわりません。

星野村立仁田原小学校の校舎

仁田原小学校を卒業する生徒が作った「卒業制作」が大切に保存されていました。

星野村立仁田原小学校の校舎

「星野村立仁田原小学校」という学校銘板がかかった門柱もしっかり残っていました。

この小学校は、上郷地区の人たちにとって誇りなんでしょうね。

仁田原(にたばる)小学校がある場所

仁田原(にたばる)小学校がある場所

黄色いところが上郷地区(画像出典:八女市星野村まちづくり協議会)

仁田原(にたばる)小学校は、星野村にあった4つの小学校の中でもっとも東に位置する「上郷(かみごう)地区」にあります。

上郷(かみごう)地区は、上郷村ともよばれ「上郷1区」のなかで11支部(中村・広蔵・桁山・小竹・杉ノ久保・金原・仁田坂)、12支部(樋下・仁田原・熊山・三坂・芽原・尾払)、13支部(九重の花・浦・荒平・平野・木和田)、14支部(杉の本・小室・柳・国武・板屋・ミヤシノ)、15支部(山口・二双・滝ノ脇・広川原・熊渡)で構成されています。

上郷地区の東側は、大分県との県境で「熊渡山」「カラ迫岳」を抜けると日田市につながっています。南側は「石割岳」があり、峠を越えると同八女市の黒木町北大淵に出ます。

中央部には、星野川が流れそれに沿うように福岡県道57号線が走っていて、小学校も県道沿いの仁田原郵便局がある集落の北側の小高い丘に「校舎」が建っています(標高372.64m)。

県道57号線をそのまま南下すると、同八女市の矢部村につながっています。

上郷地区の自然

仁田原小学校のある上郷地区は、東は市に熊渡山の国有林があり、自然豊かな水源の森となっています。

春は、ヤマザクラ・ミヤシノシャクナゲ園、夏は星野川で川遊び・ヤマメ釣り・ホタル観賞が楽しめ、秋は石割岳・カラ迫岳の「紅葉登山」が楽しめます。

上郷地区の人口

上郷(かみごう)地区の人口は、2023年(令和5年)時点で287人(世帯数144)となっており、ほかの星野村の小野地区・椋谷地区・星野地区のなかでもっとも人口が少なく、高齢化率も高い地区となっています。

仁田原小校区の歴史

仁田原小学校があった上郷地区は、「星野金山」の全盛期にもっとも活力があった地域で、福岡県道57号線沿いに集落が形成されています。

星野金山

星野金山は、1279年(鎌倉時代・弘安2年)に星野胤実(ほしのたねざね)の夢のお告げにより、小室谷(おむろだに)近くで金鉱を見つけたと言われており、鉱山のはじまりは豊後(大分県の大半を占める旧国名)の金堀りが、薩摩(現:鹿児島県)に行く途中、熊戸山ノ麓を通ると谷川の砂色に地金があることを知り、この地にとどまって金を掘ることを公に願ったと1825年(江戸時代・文政8年)の「山土産」に記されています。

1625年(江戸時代・寛永2年)以降は、「星野金山」がひんぱんに諸資料に登場し、1716年~1735年(江戸時代・享保年間)には山人(坑夫)が4000人以上もこの地に住み「金山町は何品にても商売物あり」といわれるほど、にぎわいを見せたといいます。

金山のまちとして栄える

上郷地区には、金山に関係する神社仏閣もたくさん建立されています。

星野村指定の文化財である「金山神社(金山大明神)」は、もともとこの地に祀られていた山神を藩候=はんこう(江戸時代に藩を治める主君、すなわち藩主や大名のこと)の命により、1645年(江戸時代・正保2年)に金山守護社として創建されました。

仁田原小校区の歴史

黄金山正念寺(画像出典:グーグルマップ)

また、上郷地区の三坂にある「黄金山正念寺」も、星野金山にゆかりのあるお寺で、1631年(江戸時代・寛永8年)に建立。

同地区の金原にある「金照寺」も、金山に関係した「金」という名前がついているので昔の繁栄の名残を感じます。

上郷地区の近代

この上郷地区(村)にある金山の総称が「星野(ほしの)金山」であるとおり、この地域一帯が江戸時代は「星野村」でした。その中の小さな括りとして「上郷村」があり筑後久留米藩の領下でした。

1889年(明治22年)の町村制施行によって、単独村制の「星野村」が誕生しました。

1935年(昭和10年)には、企業が「星野金山」採鉱を開始し、1943年(昭和18年)の閉山までに相当数の坑夫が筑豊炭田から「上郷地区(仁田原)」に移住してきました。

森林業にたずさわる人たち以外では、やはり鉱山関係者が「上郷地区」に移り住み、金山町として栄えてきたので閉山後は人口流出に拍車がかかり、仁田原小学校の生徒数も減少していきました。

2010年(平成22年)には、星野村が、ほかの笠原村・立花町・矢部村とともに、八女市に編入されました。

現在、仁田原小学校のある住所も福岡県八女市星野村となっています。

仁田原小校区の伝統芸能

上郷のはんや舞

はんや舞(画像出典:福岡の文化財)

上郷のはんや舞

福岡県八女市星野村の仁田原小校区(上郷地区)には、「はんや舞(はんやまい)」と呼ばれる800年以上から受け継がれる伝統文化があります。

この伝統舞踊は、上郷にかぎらず星野村の4つの地区(上郷のほか、下郷・横廻り・中通り)で毎年9月に麻生神社(星のふるさと公園内)に奉納されています。

麻生神社は、星野川の上流に自然にできた「麻生池」にあり、いにしえから雨乞い祈願のための十一面観音像がまつられています。

この麻生神社(麻生池)で、時雨祈願・風止の祭りとしてはじまり、平安時代に生まれた「公家舞」がこの「はんや舞」と風流という舞楽に取り入れられていきました。

1977年(昭和52年)には、国の「撰択重要無形民俗文化財」の指定を受けています(福岡県の無形民俗文化財にも指定されています)。

奉納行事じたいは、「風流」という打楽と「はんや舞」という扇舞の2部で構成され、風流はシャグマというかぶりものを付けた太鼓打ちが笛にあわせて踊ります。

はんや舞は、約20名ほど(人数に制限なし)が藍色の着物、袴(はかま)、裃(かみしも)で扇を持ち、素足になり、舞人みずからが歌います。お囃子は笛と鉦(かね)が使われます。

上郷のお祭り

また、仁田原小学校のあった上郷地区には「金山神社大祭」「平野不動尊祭」「年の神神社祭」「三坂祇園神社大祭」も、氏子以外の地域から支援をうけながら継続しています。

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