袋(ふくろ)小学校 [旧校舎跡] 水俣市
『袋(ふくろ)小学校 [旧校舎] 跡』は、熊本県水俣市の袋地区の子どもたちが通った小学校の旧校舎跡です。現在、袋小学校は、袋中学校の東側〒867-0034 熊本県水俣市袋1413の住所に移転しています。
袋(ふくろ)小学校は、いつ移転したの?
袋小学校の旧校舎は、1970年(昭和45年)に建設されたもので、老朽化によって2003年(平成15年)に現住所に移転し新校舎が整備されました。
袋(ふくろ)小学校跡 [旧校舎] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 袋小学校 [旧校舎] |
住所 | 〒867-0034 熊本県水俣市袋 |
移転年月日 | 2003年(平成15年) |
沿革 | 1872年(明治5年) – 袋小学校創立 1886年(明治19年) – 水俣尋常高等小学校袋分校に改称 1892年(明治25年) – 袋尋常小学校として独立。 1906年(明治39年) – 長崎分教場設置。 1929年(昭和4年) – 長崎分教場廃止。 1941年(昭和16年) – 袋国民学校に改称 1947年(昭和22年) – 葦北郡水俣町立袋小学校に改称 1949年(昭和24年) – 水俣市立袋小学校に改称 |
袋(ふくろ)小学校 [旧校舎] がある場所
袋小学校の旧校舎跡は、現在の袋小学校が袋湾の海側に対して、山の上にありました。
山といっても、小高い丘ですが国道3号線の袋郵便局から水俣市立総合体育館 南部館のほうへあがっていく途中に、旧校舎跡があります。
旧校舎跡の石碑には、わが国では明治5年8月学校教育制度が発足した。袋地区においては水俣・芦北地区で最初の小学校で当時の村長丁保方氏所有の家屋を校舎として開設されたとあります。
遠くは日奈久・田浦からも通学して以来、尋常高等小学校・国民学校など幾多の変革を重ねながら、1969年(昭和44年)3月に南袋地区に新校舎が完成するまで、97年の長きにわたり、小学教育がおこなわれた縁の跡である。
と書かれています。
遠くは日奈久・田浦から袋小学校のために通学していたことを考えると、袋地区は熊本県葦北・水俣地区のなかでも早くから、港町として発展していたことがわかりますね。
袋小学校の旧校舎跡には、袋地区民が寄付した石の校門も隣接されています。
袋(ふくろ)地区の歴史
袋地区は、1633年(寛永10年)江戸時代から袋村として存在していた港町です。熊本県最南端の八代海(やつしろかい)の沿岸部にあり、
九州鹿児島本線の「水俣駅(特急停車駅)」から南へ、普通列車に乗り換えて最初の「袋駅」がある地域です。
その線路沿い(海側)には国道3号線が走っていて、熊本県と鹿児島県をむすぶ幹線道路となっています。
袋(ふくろ)の地名の由来
地図をみておわかりの通り、袋湾は巾着(きんちゃく)=ポーチのような開く部分をヒモでしめる袋のようなカタチをしていたのでそう呼ばれるようになりました。
九州本土(袋地区側)と天草諸島のあいだには、八代海(やつしろかい)という内海=うちうみ(島や岬に囲まれた海。入り海)があり、八代海は別名、不知火(しらぬい)海と呼ばれていて、宇土半島から長島までの島々と九州半島に囲まれた湾のことをさします。
その八代海は、琵琶湖(びわこ)=滋賀県くらいの大きさの内海がいくつもあり(田浦湾・佐敷湾・水俣湾)、内海のなかにまた内海をもつことを「二重湾(にじゅうわん)」といいます。
その中でも袋湾(ふくろわん)は、八代湾の内海である水俣湾(みなまたわん)の中にさらに湾を構成していて、これが三重湾(さんじゅうわん)と呼ばれています。
湾の広さは110mで奥にひろがって、広くなっていての底(奥)に袋の集落がかつてからありました。
「袋湾」は、三重湾ということで台風の季節には、運搬船などの避難場所の港として機能してきました。また、袋村には「袋口御番所(ふくろぐちおばんしょ)」と呼ばれる、薩摩国と熊本藩の国境の番所(警備や見張りのために設置された施設)があり、船側から湾を見た時に左側が御番所跡で湯堂地区となっています。
湯堂地区は、海辺から60mの落差がある国道3号線までの急な斜面に集落がある漁村です。