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二名津(ふたなづ)中学校・神松名中学校 [平成18年閉校] 伊方町立
『二名津(ふたなづ)中学校 』は、愛媛県西宇和郡伊方町の二名津地区・名取地区・明神地区・釜木地区・平礒地区・松地区の子どもたちが通っていた中学校で、1963年(昭和38年)までの正式名称は「神松名(かんまつな)中学校」でした。
1947年(昭和22年)4月創立以来、二名津中学校は神松名村・三崎町・伊方町と自治体名が変化しても、二名津の地域の中等教育の中心をにないましたが、1963年(昭和38年)の418名をピークに生徒数は年々減少し、2005年(平成17年)には、23名となり今後も増加の見通しがないため、三崎中学校と統合になり「59年間の伝統の歴史」に幕を下ろしました。
閉校となった二名津中学校の校舎は、そのまま「三崎公民館二名津分館」として活用され、地域のコミュニティサンターとして機能しています。
二名津(ふたなづ)中学校の閉校式はいつ?

二名津中学校の閉校記念碑
三崎町立二名津中学校は2006年(平成18年)3月末で閉校になりました。
同年3月24日(金曜日)に閉校記念式典がおこなわれ、在校生や卒業生、地域の方々と関係者あわせて約150名が集まりました。
閉校式では、井上校長が「小さな学校でもやればできるではなく、小さな学校だからやれるを合言葉に、スポーツ面・文化面に23名の命が輝き、有終の美を飾ることができました」と熱っぽく語られ、その後「校旗」が返納されました。
式の最後は、みなさんで「校歌斉唱」をおこない、式典後は校舎横に設置された「閉校記念碑」の除幕式がおこなわれ、生徒をはじめたくさんの皆さんが記念撮影の写真を撮りました。
4月1日から、二名津(ふたなづ)中校区の子どもたちは、スクールバスなどで三崎(みさき)中学校へ通っています。
二名津(ふたなづ)中学校の校歌

二名津中校歌の歌詞
母なる大地 この里の
神の社に 守られて
清らに香る 二中生
2.春はたちばな 花香り
白馬は猛る 瀬戸の海
意思はくろがね きたえなん
われら若人 二中生
3.愛と正義の 旗じるし
真理の道を 究めんと
高き希望を つらぬかん
我ら雄雄しき 二中生
4.御祖先の習い 守りつつ
新しき世の にない手を
永久に送らん わが母校
誇りぞ高き 二中生
二名津(ふたなづ)中学校 [伊方町] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 二名津中学校 |
住所 | 〒796-0813 愛媛県西宇和郡伊方町二名津442 |
閉校年月日 | 2006年(平成18年) |
沿革 | 1947年(昭和22年)- 神松名村立神松名中学校設立。旧青年学校舎、神社、青年会館等を使用 1948年(昭和23年)- 木造の校舎落成された。 1951年(昭和26年)- 増築校舎落成(二階建4教室) 1955年(昭和30年)- 三崎町立神松名中学校に改称 1958年(昭和33年)- 修学旅行中、京都の旅館で火災にあう。 委員長がみんなを助けようとして、背中に大火傷を負った。 1962年(昭和37年)4月 – 校名変更により二名津中学校と改称。新教育課程実施 5月 – 同じ校舎だった二名津小中学校が分離 1963年(昭和38年)4月 – 校歌・校章が制定される 1978年(昭和53年)- 木造平屋の校舎が火災にあい全焼(一部二階建) 1979年(昭和54年)- 新校舎建築開始 1980年(昭和55年)- 新校舎落成 1990年(平成2年)- 「ふれあいの池」設置 1991年(平成3年)- 台風17号のため臨時休業(被害あり) 1994年(平成6年)- LL教室新設 1996年(平成9年)- 体育館が落成。JRCと緑の少年隊に加入 2005年(平成17年)- 伊方町立二名津中学校に改称 2006年(平成18年)- 二名津中学校が三崎中学校と合併のため閉校 |
二名津中学校の校舎
中学校の校舎の前には、二名津川が流れています。
川をへだてて、橋がかかってありその向こう側が「二名津中学校(神松名中学校)跡」です。
1980年(昭和55年)に建てられた鉄筋コンクリートの校舎は、現在は「三崎公民館二名津分館」として利用されています。
玄関の内部の様子です。生徒数が一時期かなり多くいたことがわかる下駄箱の数ですね。
1階から見た廊下と教室です。
2階から見た廊下と教室です。
3階は音楽室でしょうか?
二名津中学校の3階から見た旧二名津小方面の地区の様子です。
こちらは1996年(平成9年)建てられた、一番新しい体育館です。デザインがかっこいいですね。
運動場側からみた、二名津中学校(旧神松名村中学校)の3階建て鉄筋コンクリートの校舎です。
教室の数からも、一時期の生徒数の多さがわかる立派な建物です。
二名津(ふたなづ)中学校があった場所

二名津中校区の子どもたちが通う三崎中までの地図 [出典:学区マップ]
三崎町になる前の1955年(昭和30年)までは、「神松名村(かんまつなむら)」の中心として栄えました。
もともと二名津浦(ふたなづうら)という漁村のまちが中学校校区でしたが、1916年(大正5年)に、明神浦(みょうじんうら)地区にあった明神分校を統合したあと
1977年(昭和52年)には、松(まつ)地区と釜木(かまぎ)地区にあった中学校も閉校となり、松中学校区と釜木中学校区の子どもたちも、この二名津中学校へ通うことになりました。
そして2006年(平成18年)「二名津(ふたなづ)中学校」も閉校となり、現在は二名津中校区の子どもたちは旧三崎町の中心地にある「三崎中学校」へ通っています。
二名津(ふたなづ)とは?

二名津港 [伊方町] 画像出典:グーグルストリートビュー
伊予灘は冬には西風や北風が強く吹いて、春になると西風と東南の風が吹き「海が荒れる」ので、二名津は古くから、風よけ・潮待ちの港として開かれ、昔はイモや麦の栽培がほとんどでしたが、昭和30年代後半から農業は晩柑類=ばんかんるい(ダイダイ・ポンカン・八朔・清見・ネーブル・甘夏など)が主な産業となっています。
まちの中心には大谷川が流れ、旧二名津中学校前からは二名津川、旧二名津中学校の裏からは足谷川など、いくつかの支流が二名津湾へそそがれています(現在は、工事によって中学校跡の横から地下に水が流されています)。
昔は、大谷川沿いに2軒の造船所があり、伝馬船(荷物運搬の小型の舟)や漁船が作られ、昭和20年代ころにはイワシ網漁も盛んにおこなわれていたといいます。
東側は伊方町平礒(ひらいそ)、南側は伊方町三崎の中心地、西側は明神漁港がある明神(みょうじん)に隣接しており、北側は海(伊予灘)に面しています。
二名津(ふたなづ)の地名の由来は?
二名津は、もともとは「二間津(ふたまつ)」という地名で「二つの挟間(はざま)の船着き場」という意味があり、それが地名の由来となっています。
その後、江戸時代の宇和島藩領時代に「二名津浦」と呼ばれるようになりました。
二名津港は、海底が泥沼になっていて錨(いかり)がよく効くので船が流されないことも避難港になった理由だと考えられています。
二名津の歴史

二名津地区【出典:旧三崎町の集落 伍助会制作】
三崎町立二名津中学校があった「二名津(ふたなづ)」は、前述のとおり戦国時代までは「二間津浦(ふたまと・ふたまつうら)」として知られていました。
豊後(現・大分県)と伊予(現・愛媛県)を結ぶ航路の中で、速吸瀬戸(はやすいのせと)とよばれる潮の流れが速く航行の難所(現・豊予海峡)がありそこを通過する前の、伊予側の寄港地=きこうち(航海の途中で船が寄るところ)・停泊地として利用されていました。
古くは、1588年(安土桃山時代・天正16年)薩摩(現・鹿児島)を出発して京都へ向かう島津義弘=しまづよしひろ(薩摩国の武将)が途中に、この二間津(ふたまと)に着港したとあります。
冬場に何日も風が吹き込んで船が出ていけないときは、夜になると50艘(そう)もの機帆船=きはんせん(機械と帆で走る船)から乗組員が二名津の町へ集まって、旅館や遊郭もあったそうです(機帆船は大正時代のお話です)。
その後、1782年(江戸時代・天明2年)に二名津(ふたなづ)と改名し、伊予宇和島藩1町21村12浦のひとつとして栄えました。
神松名村(かんまつなむら)の中心地
二名津浦は、1889年(明治22年)になると、町村制が施行されて他の釜木浦・平磯浦・名取浦・明神浦・松浦と合併し、「神松名村」として新しく発足し1955年(昭和30年)まで、役場が二名津におかれ町の中心地としてとても賑わいました。
交通手段が少ない時代は、八幡浜(やわたはま)に行くには名取(なとり)まで行って、八幡丸という船に乗らなければならず交通の便が悪かったため、明神や松などの人々は二名津に来て皆が買い物をしました。
同年3月31日から、神松名村は「三崎村」と合併し同時に町制施行し「三崎町」となります。
現在の二名津集会所の駐車場になっているあたりに、青年会館がありその前側が広場になって、盆踊りや芝居が開催されていました。
青年会館の2階は、1960年(昭和35年)ごろ3本立て30円で映画を上映していたそうです。
旧二名津中学校前から、港へ行く道が「銀座通り」と呼ばれ、地元でホリとよばれていた五差路周辺には行商にきた人が露店を出し市場として人が集まっていたそうです。
2005年(平成17年)4月1日、三崎町は瀬戸町・伊方町と合併し、新設「伊方町」が発足。
2006年(平成18年)ごろから、二名津にある中学校・中学校・保育園が三崎の中心地に統合されたことにより、今は診療所も休業、公共施設がなくなった(公民館はもちろんあります)ことで、町の様子も昔とガラリと様子が変わっています。
大きな道路が開通し車社会となり、八幡浜や大洲・松山まで直接買い物へ行く人が増えたため、二名津の店は廃れていったようです。
二名津(ふたなづ)地区にある有名なもの
お伊勢踊り(二名津のお伊勢さま)

二名津のお伊勢参り【出典:伊方町公式Instagram】
愛媛県西宇和郡伊方町の二名津(ふたなづ)でひらかれる「お伊勢踊り」とは、毎年2月10・11日に二名神社に奉納される春祭りでの伝統舞踊です。
1281年(鎌倉時代・弘安4年)の弘安の役が「お伊勢踊り」の発祥とされていますが、二名津地区に伝わった時期は1870年(明治3年)の二名津集落の悪病が起源とされています。
毎日のように、二名津の人たちが何人も死んで生き手の打ちようがなかった村民は、修験者=しゅげんしゃ(修験道の行者)である法院坊という田村家曾祖父にあたる人と、浜西家の人の二人で伊勢神宮へ参拝し、悪病払いのご祈祷と御神鏡=しんきょう(神棚に祀る神具)をいただいて帰り、それをお伊勢さまと呼びました。
その後、神輿(みこし)が古くなってからは、1965年(昭和40年)に地区民全員から寄付を集め、現在の神輿を新調し、祭禮をおこなっています。
伽藍山(がらんやま)のお祭り
毎年4月初旬に佐田岬半島の最高峰、伽藍山=がらんやま(標高414m)で開催されるお祭りで、釈迦ノ祠(しゃかのほこら)の上の大岩に設置された子安大師といわれる「観音仏」の前で、おこなわれます。
起源は、二名津の酒好きの石屋のおじいさんがお祭りの途中にあやまって転ぶと、近くのお地蔵さんの首が折れているのをみて、そこから二日三日熱が下がらなかったそうです。
巫女さんにみてもらったところ「平家谷のお地蔵さんが、よい地蔵を作ってもらえないことで祟っている」と進言され、いそいでお爺さんと息子が、お地蔵さんを彫り祀ったことで嘘のように元気になったということです。
出典:伊方町ホームページ・二名津中学校ホームページ・伍助会「伊予の三崎浦から」