御崎(みさき)分校 [生月小学校] 平成3年閉校
長崎県の廃校・校跡

御崎(みさき)分校 [生月小学校] 平成3年閉校

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『御崎分校』は、長崎県平戸市の生月(いきつき)島の最北端に位置する「御崎(みさき)地区」の子どもたちが通っていた「生月小学校」の分校です。

跡地にある校舎は、御崎部落公民館として利用されています。

御崎(みさき)分校の閉校式はいつ?

平戸市立生月小学校の御崎分校は、1991年(平成3年)3月31日で閉校になりました。

同年4月より、御崎分校区の児童は本校である「生月(いきつき)小学校」に通っています。

御崎(みさき)分校の校歌
御崎(みさき)分校の校歌

御崎分校校歌の石碑

御崎分校は、分校でありながら校歌が存在していました。

1.東にひらく 青い海
朝な夕なに 学びやの
窓にせまりて 子らをはぐくむ
ああ我等が母校 御崎分校

2.松風におう 牧が丘
ゆたかなみどり 若々し
命のかぎり きょうも学ばん
ああ我等が母校 御崎分校

3.文化を島に おこすべく
よき子等として ひとすじに
学びの庭に きょうも通わん
ああ我等が母校 御崎分校

御崎(みさき)分校 [平戸市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 御崎分校
住所 〒859-5707 長崎県平戸市生月町御崎
閉校年月日 1991年(平成3年)
沿革 1888年(明治21年)- 御崎分舎を創設。
1893年(明治26年)- 御崎分舎を分校と認可。
1909年(明治42年)- 増築(教室・裁縫室)。
1924年(大正13年)- 職員住宅設置。
1931年(昭和6年)- 校舎改築。
1947年(昭和22年)- 校舎改築移転。
1967年(昭和42年)- 鉄骨校舎一階完成。
1972年(昭和47年)- 二階増築(教室1・特別室3)。
1977年(昭和52年)- 防火自動警報器設置・楽焼作業場完成・屋外用大時計設置。
1978年(昭和53年)- 藤棚完成。
1981年(昭和56年)- 運動場バックネット完成。
1982年(昭和57年)- カラーテレビ全教室設置。
1984年(昭和59年)- 手洗場完成・砂場完成・運動場整備。
1986年(昭和61年)- うんてい完成。
1991年(平成3年)- 生月小学校に統合のため、御崎分校閉校。

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

御崎(みさき)分校のある場所は、長崎県道42号線の終点「御崎」バス停からすぐです。

ここは、生月新四国霊場の第六十番札所「薬師如来」がある児童遊園となっていました。牛注意の看板はめずらしいと思います。

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

御崎分校にあがっていく道の手前の県道42号線には、かつて営業していた旅館「生月みさき」と観光物産センターの跡地がありました。

この地区は、暴風に近い北からの強い風が吹くため、ガラスも割れていました。

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

御崎簡易郵便局を過ぎた坂をのぼった先に、御崎分校の鉄筋二階建ての校舎がありました。

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

校舎の前には、1988年(昭和63年)に建てられた「生月小学校御崎分校」創立百周年記念碑が建立されていました。

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

現在、跡地は「御崎部落公民館」として再利用されています。

すぐ前には「御崎分校」と書かれた学校銘板と石の校門が置かれていました。

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

校舎側から見た運動場の様子です。運動場のその先には広大な「東シナ海」がひろがっています。

平戸市立生月小学校御崎分校の校舎

学校校舎の裏側です。裏からも2階へ上がれる階段(もしくは非常階段)がありました。

御崎(みさき)分校がある場所

御崎(みさき)分校区がある場所は、長崎県平戸市の生月(いきつき)島です。

生月島は、長崎県の北西部にある「平戸(ひらど)島」から、さらに生月大橋(平成3年開通)を渡ったところにある南北10km・東西2kmの南北に細長い島です。

南端(生月大橋)の「生月町館浦」地区から県道42号線が、南北に通っていますので北へ約8km進むと、北端の町が「御崎(みさき)」です。

北からの風が強く吹く「御崎」には漁港があり、それぞれ元浦地区と水ノ浦地区に分かれています。

御崎漁港は、江戸時代中期から明治初期にかけて、日本最大規模の捕鯨チーム「益富組(ますとみぐみ)」の納屋場(解体・加工)があったことで知られています。

御崎(みさき)分校区の歴史

長崎県平戸市の生月島にある「御崎(みさき)」は、古くは「牧(まき)」とよばれ、馬を育てる牧場でした。

1184年(平安時代・元暦元年)に源義経が「一ノ谷の戦い」で平氏をやぶった際に活躍した名馬「池月(いけづき)」がここで生まれ育ったという伝説があります(池月伝説は日本各地に分布しています)。

御崎は、その後も生月島を支配していた加藤氏・山田氏(中世)や、籠手田氏・一部氏が支配していた戦国時代など、領主勢力にともなって軍馬を育てるための「牧」として利用されていました。

江戸時代に入ると、御崎の原野は平戸藩の御料馬牧場として利用されていましたが、1826年(江戸時代・文政9年)に獅子村春日に牧場が移転したため、御崎の土地が島民に払い下げられました。

江戸時代の古地図には、御崎地区は「牧村」という名称で掲載されています。

上記のように、生月島の地域は「肥前平戸藩」の領下で、御崎(牧村)がある北部と中部が「生属(いきつき)村」、南部が「山田(やまだ)村」としてそれぞれ存在していました。

牧場が移転される前、1729年(江戸時代・享保14年)ごろから、生月島にいた「鯨組・益冨組」という捕鯨グループが、クジラの解体・加工をおこなう「納屋場」を舘浦から御崎浦にうつしました。

1832年(江戸時代・天保3年)刊行の「勇魚取絵詞=いさなとりえことば(捕鯨よよび解体処理の技術書)」によると、当時の御崎(みさき)浦にあった納屋場は、前面の波打ち際でクジラの解体をし、陸上では「くじら(鯨)」の加工をおこなう大納屋・小納屋・骨納屋・筋納屋のほか、船や道具の修理をする作業場関連の建物群など、500人もの従業員が暮らす長屋があったそうです。

いっぽう、元浦の沖には、享保年間に大規模定置網の漁場が置かれ、おもにマグロが捕獲されました(経営権は益冨家)。

1889年(明治22年)には、生属村と山田村が合併し「生月(いきつき)村」が誕生しました。

明治30年代には、170年続いた捕鯨組の操業が終焉。昭和に入ってからは御崎集落の西側の「ミンチマ」と、北端の「たかり」には日本軍の砲台が置かれ、御崎全域が要塞地帯となり多くの兵隊が駐屯しました。

1940年(昭和15年)、生月村が町制施行して「生月(いきつき)町」となりました。

2005年(平成17年)、生月町は大島村・田平町とともに旧・平戸市と合併し、新設「平戸市」が発足しました。

現在、御崎分校区の住所は、長崎県平戸市生月町御崎となっています。

出典:生月町博物館「島の館」ホームページ、平戸市ホームページ

御崎分校区の名所

御崎分校区の名所

御崎浦捕鯨納屋場跡(画像出典:グーグルマップ)

御崎浦捕鯨納屋場跡

御崎浦捕鯨納屋場(みさきうらほげいなやば)跡は、御崎(みさき)集落の捕鯨チームの納屋場があったところです。

分業して、加工をおこなった「納屋場」跡地は、現在、礎石と記念碑しか残っておりませんが、北側斜面には納屋場の守り神として祀られてきた「岬神社」の石洞が現存し、祠(ほこら)の屋根には、「益冨組」の船印と組の紋が刻まれています。

長崎県平戸市の北部は、古くから捕鯨文化と深くかかわりがあった地域です。

特に、1725年(江戸時代・享保10年)から捕鯨業に進出した「益冨組」は、19世紀前期には5つの組を経営し、3千人を雇用する日本最大規模の鯨組となりました。

御崎浦の公園内には、当時「網干場」だった場所に石が敷き詰められ「古賀江網干場跡」として残されています。

出典:平戸学ホームページ、平戸市ホームページ

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