名護屋(なごや)中学校 [平成25年3月閉校] 唐津市立
佐賀県の廃校・校跡

名護屋(なごや)中学校 [平成25年3月閉校] 唐津市立

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名護屋(なごや)中学校 』は、佐賀県唐津市鎮西町の「名護屋校区(名護屋・串・波戸・野元)」の子どもたちが小学校を卒業したあとに進学していた中学校です。

名護屋(なごや)中学校の閉校式はいつ?

唐津市立名護屋中学校は2013年(平成25年)3月末で閉校になりました。

2013年(平成25年)4月1日から名護屋中校区の子どもたちは、同年閉校された「呼子(よぶこ)中」、「打上(うちあげ)中」の子どもたちとともに、新設された「海青(かいせい)中学校」へ通っています。

名護屋(なごや)中学校の校歌
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名護屋(なごや)中学校 [唐津市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 名護屋中学校
住所 〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋2265番地
閉校年月日 2013年(平成25年)
沿革 1947年(昭和22年)4月1日 – 学制改革により、新制中学校「名護屋村立名護屋中学校」として開校。
当面の間、名護屋小学校に併設の形をとる。
1950年(昭和25年)3月 – 中学校校舎が完成し、小学校との併設を解消。
1956年(昭和31年)9月30日 – 名護屋村が打上村と合併し鎮西町が発足したことにより「鎮西町立名護屋中学校」に改称。
2005年(平成17年)1月1日 – 鎮西町が唐津市に編入されたことにより「唐津市立名護屋中学校」に改称。
2013年(平成25年)3月31日 – 同年閉校した呼子中・打上中と合併のため閉校。4月 – 海青中学校開校。※1

※1 出典:ウィキペディア

名護屋(なごや)中学校がある場所

名護屋(なごや)中学校がある場所

名護屋校区【出典:学区マップ】

名護屋中学校がある校区は、佐賀県唐津市鎮西町(ちんぜいちょう)の名護屋・串・波戸・野元の小字がある地域で、名護屋小校区とほぼ重なります。

名護屋中学校は、鎮西町にあり近くには波戸岬や佐賀県立名護屋城博物館があります。

また、道の駅「桃山天下市」では地元の農産物や海産物が販売されており、お食事もできるため土日はたいへん混雑します。

近くの呼子(よぶこ)では、朝市や新鮮な烏賊(イカ)が有名です。名護屋大橋近くでは、新鮮な「烏賊(イカ)」がご賞味できる飲食店があります。

名護屋(なごや)とは?
名護屋(なごや)とは

名護屋の地理【出典:農業集落境界の閲覧】

佐賀県唐津市の名護屋(なごや)は、1956年(昭和31年)までに東松浦郡にあった村の名称です。

壱岐水道(玄界灘)に突き出た「東松浦半島」の北端にあり、構成は「旧名古屋村・串村・波戸村・加唐島村・馬渡島村」の集落からなります。

名護屋城の誕生

1592年(安土桃山時代・文禄元年)に、豊臣秀吉による朝鮮出兵がはじまるとこの場所は約7年間、出兵の兵士の拠点となる城下町として全国から150以上の大名が集まり、一時は20万人もの人々が暮らした臨時的な日本の首都の様相を呈していたといいます。

加藤清正らをはじめたくさんの大名の分担により、わずか5ヶ月というスピードで主要部分ができあがった名護屋城の面積は、約17ヘクタール(17万平方m)で、当時は大阪(大坂)城につぐ規模を誇りました。

名護屋城はすでにありませんが、城の石垣や徳川家康・前田利家といった大名が暮らした陣屋跡が23ヶ所も残されていて、安土桃山時代の貴重な遺跡として、国の特別史跡に指定され貴重な資料は同市にある「佐賀県立名護屋城博物館」に展示されています。

茶の湯の愛好者であった時の将軍「豊臣秀吉」は、朝鮮半島で戦いがくりかえされていたころ、名護屋にいた諸国の大名を集めて「茶会」や「能」をひらいていたようで、陣地あとからも「能舞台」「茶室跡」が発掘されています。

名護屋の地名の由来

「なごや」という地名は、大分県佐伯市「名護屋」をはじめ、愛知県名古屋市・高知県土佐市・新潟県佐渡市・静岡県伊豆など全国各地にあり、その発祥は、漁労道具(ぎょろうどうぐ)を入れる小屋=魚小屋(なこや)や、漁師をあらわす魚子(なご)が利用する施設=魚子屋からきているといわれています。

中世に松浦(まつら)党の一族である名護屋氏の拠点となり、室町時代には朝鮮との貿易で栄えました。

1922年(昭和11年)に、愛知県名古屋市と区別するため、名古屋村から名護屋村と改名しました。

名護屋は大きく分けて、台地上の「岡集落」と海岸の「浜集落」にわかれ、岡集落は柑橘類などの畑作にすぐれ、浜集落には佐賀県内有数の漁港(名護屋漁港)が存在します。

玄武岩性の上場(うわば)大地に深く入り込んでいる「名護屋浦」と東側にある呼子町(唐津市)は大橋で直結しています。

名護屋の歴史

室町時代に松浦(まつら)党の一族である名護屋氏がここを拠点に活躍し、朝鮮の貿易などで栄えました。

江戸時代には、肥前唐津藩の1町147村のうち「串村」「波戸村」「名古屋村」「加唐島村」「馬渡島村」がそれぞれ集落として存在していました。※加唐島(かからしま)と馬渡島(まだらしま)は玄界灘に浮かぶ島です。

1889年(明治22年)の町村制施行で、 旧名古屋村と串村・波戸村・加唐島・馬渡島が合同合併し新設「名古屋村」が誕生しました。

愛知県の地名との混同を避けるため、1922年(大正11年)名古屋村は漢字の一文字だけ変えた「名護屋村」に改称しました。

1956年(昭和31年)、隣接する打上村(うちあげむら)と合併し、鎮西町(ちんぜいちょう)が新しく誕生し住所は鎮西町名護屋となります。

名護屋中学校も、鎮西町立名護屋中学校と改称。

2005年(平成17年)鎮西町は、他の浜玉町・厳木町・相知町・北波多村・肥前町・呼子町とともに唐津市に合併し、新設「唐津市」が誕生し、住所も唐津市鎮西町名護屋となり中学校も、唐津市立名護屋中学校に改称されました。

唐津市の名護屋にある有名なもの
唐津市の名護屋にある有名なもの

名護屋城跡【出典:グーグルマップ】

名護屋城跡

名護屋城は、日本100名城のひとつで、豊臣秀吉(太閤)が朝鮮出兵の際に出兵拠点として築いたお城です。

豊臣秀吉の死後に破壊されたため、お城は残っていませんが石垣が残っています。

名護屋城跡博物館

名護屋城跡に隣接している博物館で、名護屋城の建設・朝鮮侵略への過程と終焉の歴史を映像とパネルで見学できます。

豊臣秀吉が大名たちとたしなんだ「金の茶室」も再現され一般公開されています。

道の駅 桃山天下市

国道204号の幹線道路沿い、名護屋城跡前にある道の駅です。

おみやげ物屋さん・農産物直売所・海産物店の3つの棟にわかれていて、奥にはレストラン「桃山亭海舟」もあり呼子名物イカの活け造りをはじめ、玄界灘の魚介・佐賀牛・山菜をつかった定食・海鮮丼・刺身の盛り合わせが食べられます。

⇒ 道の駅 桃山天下市 

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