大岩(おおいわ)小学校跡 [芦北町]
『大岩(おおいわ)小学校跡 』は、熊本県葦北郡芦北町の「大岩地区(大岩・黒岩・岩屋川内)」の子どもたちが通った小学校跡です。
現在、大岩小学校の校舎跡は「大岩地区生涯学習センター」と熊本大学の研究施設として再利用されています。
大岩(おおいわ)小学校は、いつ閉校したの?
芦北町立大岩小学校跡は、2005年(平成17年)の3月に閉校となりました。
2005年(平成17年)4月からは、大岩小学校校区の子どもたちは、芦北町立「田浦小学校」へ通っています。
大岩(おおいわ)小学校の校歌
千春万秋 うるわしく
瀬鳴りの音も こもらいて
平和の光 輝けり
2.遠き昔は 文禄の
御代に知られし 牧山の
秀峯天 にそそり立つ
高きはわれらの 理想なり
3.学びの道を ひとすじに
赤き心の まこともて
いざや進まん むつまじく
われらに希望の 光あり
大岩(おおいわ)小学校跡 [芦北町] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 大岩小学校 |
住所 | 〒869-6213 熊本県葦北郡芦北町大岩4497 |
閉校年月日 | 2005年(平成17年) |
沿革 | 1875年(明治8年) – 吉尾小学校大岩分教場設置。 1880年(明治13年) – 大岩小学校となる。海路分教場設置。 1889年(明治22年) – 吉尾尋常小学校大岩支校となる。 1892年(明治25年)- 大岩尋常小学校となる。 1941年(昭和16年) – 大岩国民学校と改称。 1947年(昭和22年) – 吉尾村立大岩小学校と改称。 1955年(昭和30年) – 葦北町立大岩小学校と改称。 1970年(昭和45年) – 芦北町立大岩小学校と改称 2005年(平成17年)3月 – 芦北町立田浦小学校へ統合 |
大岩(おおいわ)小学校があった場所
大岩小学校があった場所は、明治初期までに大河内村(大岩二区=野稲田 ・茶ノ木鶴 ・渡瀬 ・大野 ・小平 ・木ノ根平 ・水無 ・灰立迫 ・樺の迫、大岩一区=本川内 ・古寺川内 ・松ノ鶴、銅山)と岩屋河内村=岩屋川内区 (岩屋川内 ・岩谷平 ・塩鶴 ・蝙蝠)の地域を総称して、大岩(おおいわ)地区と呼んでいます。吉尾川上流の大岩川にそった山中の集落で、まわりには岩場が多く、南に下ると「吉尾(よしお)」があり1889年(明治22年)には黒岩村、上原村、海路村、旧吉尾村、箙瀬村と一緒に「吉尾村」の自治体の管轄下で生活していました。
銅山(かなやま)には、かつて吉尾銅山があり、黄銅鉱を採掘していました。
古くから、球磨川流域の集落と交流があり、一勝地(球磨村)にある橋詰の観音堂には1516年(室町時代・永正13年)に作られた鰐口=わにぐち(神社や仏閣の軒先にかけられた金属製の打鐘)があり、大河内(大岩)観音から奉納されたと書かれています(球磨村指定工芸)。
中心部の本川内には、住宅密集地の奥まったところ(城郭のような高台)に大岩小学校跡があり運動場のひとつ低い場所に、芦北三十三観音の1つである9番札所の「大河内観音」が鎮座しています。学校の東側には浄土真宗のお寺「善教寺」があります。「大岩」の地名の由来は、この一帯が吉尾川の下流から大河内・岩屋河内と石灰石の岩場や転石が多く、1874年(明治7年)に岩屋河内村が大河内村と合併するにあたり、翌年1875年(明治8年)2つの地区の総称として、大岩村(おおいわむら)が採用されました。
大岩地区は、2006年(平成18年)に「過疎地における地域復興を模索する研究」のプロジェクトとして、熊本大学と芦北町と一緒に「大岩地区むらづくり協議会」を設立しました。
熊本大学の目的は、中山間地域の進行政策のための課題のかなめとなるデータの収集および、データベースの構築でした。住民・行政・大学が一体となった新たな地域活性化事業に取り組んでいます。
大岩(おおいわ)小学校跡 の史跡
大岩小学校跡の校舎は二階建ての鉄筋コンクリートで、とても立派な作りです。平成に建立されたものですね。
1階からすぐ、運動場にでれる工夫がされており、学校が高台にあるため運動場からは「大岩集落」の家々が見渡せます。
まるでお城のように高台にそびえたつ大岩小学校の校舎。校舎の西側から運動場をのぞむと、川向こうの山々まで顔をのぞかせます。
校舎から体育館へは、屋根付きの通路があって雨の日でも子供たちはぬれずに移動ができました。
体育館も立派に残っていて、地域住民のさまざまなスペースとして活躍しています。
熊本大学と芦北町の中山間地域総合政策研究推進室という看板がみえます。