大尼田(おおにた)小学校跡 [芦北町]
『大尼田(おおにた)小学校跡 』は、熊本県葦北郡芦北町の「大尼田地区(松生、大尼田、立川・榎川内)」の子どもたちが通った小学校跡です。
現在、大尼田小学校の校舎跡は「大尼田地区生涯学習センター」として再利用されています。
大尼田(おおにた)小学校は、いつ閉校したの?
芦北町立大尼田小学校跡は、2002年(平成14年)の3月に閉校となりました。
閉校式は、3月23日(土)に開催され、学校関係者や来賓者、郷土出身者と地域のみなさまなど合計400名が参加して、にぎやかな式典となりました。
校庭では全児童による閉校記念碑の除幕式もおこなわれ、石碑には「大尼田小学校跡 2002年平成14年3月31日」と刻まれています。
体育館では満員の会場のなか、町長・実行委員・PTAのあいさつ、児童・生徒会長代表のあいさつ、出席者全員での校歌斉唱がおこなわれました。
惜別のステージとして第1部は児童発表がおこなわれ、小学校生活の思い出や大尼田小学校で学んだことを発表しました。
第2部は水俣演奏家協会の方による発表で、ピアノ独奏・ソプラノ独唱・会員の方による校歌・応援歌の合唱。
第3部は、地域の方の発表として日本舞踊・カラオケなどで大いに盛り上がりました。昼食の合間には、皆さんに小学1年生と2年生が作った梅酒「春一番」(閉校記念・閉校式限定)がふるまわれました。
最後は、全員で万歳三唱で締めくくられました。
また、最後の卒業式は3月22日で、卒業証書の最後の番号は2409号でした。
2002年(平成14年)4月から、大尼田小学校校区の子どもたちは、芦北町立「佐敷小学校」へ通っています。
大尼田(おおにた)小学校の校歌
みどりに映える 山桜
正しく清く すこやかに
学びの道に 励もうよ
おお ぼくら
ぼくらの大尼田小学校
2.せせらぎ絶えぬ この里の
くれない萌える 山つつじ
自立の友と むつまじく
未来の夢を 語ろうよ
おお わたしの
わたしの大尼田小学校
3.朝霧はれて 学び舎に
ゆたかに薫る 菊の花
あふれる力 たくましく
鍛えて共に 進もうよ
おお われら
われらの大尼田小学校
大尼田(おおにた)小学校跡 [芦北町] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 大尼田小学校 |
住所 | 〒869-5422 熊本県葦北郡芦北町大尼田1645 |
閉校年月日 | 2002年(平成14年) |
沿革 | 1874年(明治7年)4月 – 芦北町立佐敷小学校大尼田分校として創設。 1887年(明治20年)- 佐敷尋常小学校大尼田分教場と改称。 1888年(明治21年) – 芦北北部高等小学校大尼田分教場と改称。 1893年(明治26年) – 芦北町立佐敷小学校分校より独立し、修業3年の大尼田尋常小学校となる。 1901年(明治34年) – 修業4年の尋常小学校となる。 1902年(明治35年) – 裁縫科が加設。 1908年(明治41年) – 尋常科修業6年に延長。 1912年(明治45年) – 新校舎竣工(9教室、120坪)1926年(大正15年) – 高等科併設(大尼田尋常高等小学校)高等科2年まで。1936年(昭和11年) – 本校増築落成(2教室増設) 1941年(昭和16年) – 大尼田国民学校と改称。 1947年(昭和22年) – 大尼田小学校と改称。 1948年(昭和23年) – PTA発足 1951年(昭和26年) – 学校図書館建設 1952年(昭和27年) – 県道徳教育研究指定校となる。 1955年(昭和30年) – 町村合併により芦北町立大尼田小学校となる。 1956年(昭和31年) – 校舎改築現在地(芦北町大尼田1645)に移転。 1958年(昭和33年) – 「簡易教具の利用と基礎学力」の研究発表。 1960年(昭和35年) – 放送室及び校内放送施設完成。 1965年(昭和40年) – 完全給食開始。 1967年(昭和42年) – 町学校給食センター方式による給食開始。 1968年(昭和43年) – 簡易保健組合結成。 1970年(昭和45年) – 校歌制定。小見文庫設置。芦北町立大尼田小学校と改称 1973年(昭和48年) – 元給食室を理科室に改造。 1974年(昭和49年) – 創立百周年記念式典。小見氏像建立。 1976年(昭和51年) – プール完成。 1981年(昭和56年) – 上水道をプール水源に切替え。 1983年(昭和58年) – 芦北(吉尾方面)水害。西校舎床上浸水。 1984年(昭和59年) – 新校舎・体育館落成。運動場整地完成。 1987年(昭和62年) – 校舎裏防御フェンス完成。 1988年(昭和63年) – 複式小人数学級研究指定校となる。(県・町)1990年(平成2年)- 特殊学級新設。 1991年(平成3年)- 総合警備工事完了。 1992年(平成4年)- 環境教育研究推進校指定となる。(県・町) 1995年(平成7年)- 複式小人数学級研究推進校となる。 1996年(平成8年)- 複式小人数学級研究推進校発表。 1997年(平成9年)- 体育館屋根葺き替え工事。 1998年(平成10年)- 新幹線鉄道公団土砂運搬により松生、立川、榎川内地区児童のタクシー下校が始まる。屋根瓦破損により大量の雨漏り。(修繕完了)プール給水管修繕。花いっぱい運動に応募し、入賞する。 1999年(平成11年)- 県P連指定「親子20分読書」研究指定。本校ホームページの公開を開始する。台風19号により防球ネット支柱倒壊、体育倉庫屋根破損 2002年(平成14年)平成13年度モア・タッチ作品コンテスト(小学校ホームページ部門)で優秀賞を受賞。大尼田小学校閉校式(3月23日)芦北町立佐敷小学校へ統合 |
大尼田(おおにた)小学校跡 の史跡
大尼田小学校の校舎は、鉄筋コンクリート3階建てで1983年(昭和58年)頃完成し、体育館も同時期に落成しました。
校内には、校舎・体育館・運動場・プール・借りていた学校田・遊具・学級園・飼育小屋・体育倉庫・二宮金次郎像・学校園がありました。
大尼田小学校の年中行事は、交通安全教室・お話会・米作り・歓迎遠足・クリーン運動(河川の清掃)・パソコンクラブの活動・なかよし給食・餅つき大会・健康カルタ大会・車いす体験学習・親子竹とんぼ教室・学習発表会・大運動会・地区訪問正月駅伝大会、などがありました。
校舎側からみた運動場です。地元のかたがしっかり整備していつも草が生えないように努力されています。
玄関の西側に置かれた二宮金次郎像です。
1976年(昭和51年) あたりにプールも完成して、子供たちの夏の水泳教室が開かれました。
最後の在校生たちの切り抜きが、まだ掲示板に残っていました。
飼育小屋で飼っていたうウサギちゃんの石のお墓がありました。
その他生き物は、シュレーゲルアオガエルや学校田の近くで金色のオタマジャクシ、ホウネンエビが生息していました(学校の子どもたちで観測日記をつけていました)。
明治7年に創立された伝統のある大尼田小学校は、昭和24年に240人をピークに、平成13年には20人まで生徒数が減少し、平成14年度に芦北中心部にある佐敷小学校へ統合されることになりました。
昔の大尼田小学校の校舎
昔の木造校舎のときの大尼田小学校です。
生徒数240名(昭和23年当時)
昭和49年の創立100周年のときでしょうか?大きな木造校舎が2つ見えます。
生徒数81名(昭和48年当時)
昭和58年3月に上記の新校舎が建てられました(現存)。
生徒数64名(昭和58年当時)
大尼田(おおにた)小学校があった場所
大尼田小学校には、芦北町の中心部から県道60号線沿いを宮浦地区をぬけて矢櫃(やびつ)坂の峠を越えて手前から、松生(まつばえ)・大尼田(おおにた)・立川(たちかわ)・榎川内(えのがわうち)の集落の子どもたちが通っていました。
昔から豊かな自然を利用して、アイリスや水稲の栽培がおこなわれています。
大尼田(おおにた)の地名の由来
「大尼田」の地名の由来は、「にた」という言葉が湿地や湿田を意味し、山間部の谷間の湿った場所が特に「にた」と呼ばれます。
「おおにた」とは、大湿田から由来していると考えられています。また、新しい田んぼのことも「にった」と言い継がれており、大新田の意味とも捉えられます。
大尼田地区(ここでは、松生と立川も含みます)では、古代から吉尾川支流(大尼田川など)の高度100mほどの農山村地域として、人々が生活していました。
初めて、大尼田と歴史に記されたのは?
芦北町の大尼田地区が初めて地名として登場した書物は、この土地を治めていた「浅野六郎」の浅野家の古文書で、その中では大泥田・鬼田とも書かれています。
1274年と1281年、大尼田出身の土豪=どごう(室町から戦国時代にかけて台頭した新興の武士で、その土地の豪族)であった浅野家の8代目の浅野玄蕃のとき、蒙古(モンゴル)襲来で相良氏(さがらし)に従って、出陣してがらをたてたため、相良氏から鬼塚という名字をもらい、白石、箙瀬、上蔀、高田部、瀬戸石、鎌瀬、内木場の7つの村を追加で分け与えられたと書かれています(相良氏が芦北から退かれて再び浅野の姓に戻しました)。
肥後国誌=ひごこくし(1772年・江戸時代に書かれた熊本地域を研究した本・郷土誌)でも、1592年(安土桃山時代・文禄元年)に起こった梅北の乱で「大尼田玄蕃」が矢崎内蔵助を討ち取ったという記録があります。
江戸時代の大尼田地区
1633年(江戸時代・寛永10年)には男女214名が暮らしていたとありますが、江戸時代は大尼田村・松生村・立川村の3つの村が存在していました。
大尼田(おおにた)地区の地理
大尼田地区にある立川(元立川村)と大尼田(元大尼田村)の北側は笠山(標高567m)の南の麓に位置しています。この笠山は通称、牧山といわれており古くから浅野家が管理をして、加藤清正の馬を育てるための牧場として50頭~60頭)の監督をしてきたともいわれています。江戸時代に入ると馬は細川藩に納めます。
また松生(まつばえ)地区は、芦北中心部(佐敷)にも近く宮浦集落との距離も遠くないのですが矢櫃(やびつ)坂という峠が難所であったこと、塩汲岳(標高385m)の麓の村として高度が高かったことから、大尼田地区に通っていたようです。
大尼田(おおにた)の地区の名所
大尼田地区にある、主要な施設と名所は芦北町立大尼田小学校跡・大尼田公民館・坊主墓・JA支所・松生公民館・立川公民館・榎川内集会所・和田商=網工場・やびつ坂・榎川内堂・和田庄・松生の堂・城丘・阿蘇神社・宮後・馬頭観世観音堂・立川の堂・道路記念碑です。
坊主墓とは、城丘に住んでいた武将が眠る墓で、松生のお堂は松生地区のお守り仏様。
城丘とは、むかしお殿様が住んでいて7号目に馬置き場(馬場)があったそうです。
大尼田阿蘇神社は、毎年11月にお祭りがある大尼田集落の守り神様で、宮後は六舎大妙神をおまつりしてある大尼田地区の氏神様。
馬頭観世観音堂は、昭和10年代まで牧山のお祭りがあり、その時の牧山の馬の神をここに移して祀られています(牧山には昔、馬が100頭ばかりいました)。
道路記念碑は、明治33年ごろにできた県道(花岡~白石)の開通記念碑です。
現在の大尼田(おおにた)地区
大尼田地区は、前述の通り江戸時代には松生村・立川村・大尼田村が存在し、その後、大尼田村となり、1889年(明治22年)の町村制の施行のときには、
大尼田地区は、他の14の村とともに佐敷村の1つとなりました。
1903年(明治36年)には佐敷村が町制施行して「佐敷町」となり、1955年(昭和30年)には大野村と吉尾村と新設合併し「葦北町」となりました。
2005年(平成17年)、再び田浦町と芦北町が合併し、現在は芦北町大尼田となっています。