田川(たがわ)小学校跡 [芦北町]
『田川(たがわ)小学校跡 』は、熊本県葦北郡芦北町の「田川地区(牛淵・田川・松原・寒気)」の子どもたちが通った小学校跡です。
現在、田川小学校の校舎は解体され、グランドゴルフの練習場として再利用されています。
田川(たがわ)小学校は、いつ閉校したの?
芦北町立田川小学校跡は、1971年(昭和46年)の3月に閉校となりました。
1971年(昭和46年)4月からは、田川小学校校区の子どもたちは、芦北町立「佐敷小学校」へ通っています。
田川(たがわ)小学校の校歌
田川(たがわ)小学校跡 [芦北町] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 田川小学校 |
住所 | 〒869-5443 熊本県葦北郡芦北町田川 |
閉校年月日 | 1971年(昭和46年) |
沿革 | 1878年(明治11年) – 湯浦小学校田川分教場設置。 1889年(明治22年) – 佐敷小学校田川分教場と改称。 1905年(明治38年) – 田川尋常小学校として独立。 1941年(昭和16年) – 田川国民学校と改称。 1947年(昭和22年) – 佐敷町立田川小学校と改称 1955年(昭和30年) – 葦北町立田川小学校と改称 1970年(昭和45年) – 芦北町立田川小学校と改称 1972年(昭和47年) – 佐敷小学校へ統合 |
田川(たがわ)小学校があった場所
田川小学校があった場所は「田川地区」といい、八代海(不知火海)に面する「佐敷湾」から佐敷川を3km上流にあがっていくところ支流の田川川(久野川)との合流地点の牛淵集落・松原集落・田川集落の総称です。西側には湯浦(ゆのうら)の宮崎・豊岡地区、南側は丸山・米田地区、東側は市野瀬・大野地区、北側は佐敷・桑原・八幡と隣接しています。
農業集落境界では、牛淵・田川・松原・寒気と呼ばれ、明治初期までには今村・垣内村・野々木村・牛淵村として、それぞれ存在していました。
別の佐敷川からの支流、寒気川の支流にも「寒気(さぶけ)」集落があり、そこの地区も大字が田川なのでこちらの子どもたちも「田川小学校」に通っていた可能性があります。
1875年(明治8年)に今村・垣内村・野々木村・牛淵村は「田川村(たがわむら)」として統合され、その3年後の1878年(明治11年)に田川小学校は湯浦小学校の分校(分教場)として創設されました。
当時の田川校区は、湯浦(ゆのうら)の管轄だったんですね。しかし、1889年(明治22年)に町村制が施行されると、田川村は他の14の村と一緒に「佐敷村」として発足することになり、学校も佐敷小学校の分校に変わります。
田川小学校が分校であった頃の校地は、旧垣内村の上野角(かみのずみ)414番地に建っていました。垣内村は、庵ノ山の峠を境にして、大野村(現・大野)の小高い平地の集落でしたので、山側に学校があったということになります。
その後、1897年(明治30年)に山尼田309の3番地に移転し、1905年(明治38年)には人口増加にともない独立して田川尋常小学校となります。
現在の田川(たがわ)地区
先述の通り、田川地区は江戸時代まで今村・垣内村・野々木村・牛淵村に分かれていました。1875年(明治8年)にその2つの村が合併し「田川村(たがわむら)」になりました。
1889年(明治22年)には、ほかの14の村とともに「佐敷村」の一部となり、1903年(明治36年)に町制施行で「佐敷町」になり、1955年(昭和30年)には大野村・吉尾村と合併し「葦北町」となり、
現在、芦北町田川となっています。
のどかな田園風景が広がる「田川地区」には、第2桑原トンネルから、松原トンネルと「九州新幹線」が通っており、田川小学校の跡地でも新幹線が通り過ぎると、轟音が鳴り響きます。
田川(たがわ)小学校跡 の史跡
田川小学校の校舎は、取り壊されて現地には「もう存在」していませんが、なんと校舎は大尼田地区に移設されていました。校舎を解体して、建材を「和田庄熊本商店」という佐敷(芦北町)の会社が運んで、大尼田で組み立てて網を修理する工場として使われているようです。
田川小学校の跡地は、旧住所で山尼田309の3番地ですが現在番地がなく、熊本県葦北郡芦北町田川となっています。
すぐ横に、新幹線の線路があります。
1972年(昭和47年)に閉校となって、もう50年以上経ちますのでさすがに校舎は解体されていました。
現在は、地元の方のグランドゴルフ場になっているようです。
石の塀と階段が2ヶ所あり、ひとつ高い場所に校舎が建てられていたことがわかります。
校舎側から運動場をみた感じです。とても広くとられていました。
分校からの田川小学校独立はうれしかったでしょうね。
「熊日写真ライブラリー」さんで当時の田川小学校の様子を閲覧することが可能です。