豆酘(つつ)中学校 [令和8年閉校] 対馬市立
長崎県の廃校・校跡

豆酘(つつ)中学校 [令和8年閉校] 対馬市立

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『豆酘中学校』は、長崎県対馬市の「豆酘中校区(豆酘・浅藻・豆酘瀬・佐須瀬)」に住む小学生が、進学して通った中学校です。

豆酘中は、対馬の最南端に位置し生徒数5名(令和7年度)の極小規模校です。長崎おもてなし協力隊の伝統を引き継ぎ、ロードレース大会の運営や花植活動にも貢献し、令和4年度には「防波堤アートプロジェクト」に挑戦し、見事な壁画を完成させました。

豆酘中学校の教育体験の特徴として「朝鮮通信使」「対馬の環境保全活動」「郷土の食材を活用した料理の創作活動」「豆酘みかん狩り」といった「ふるさと教育」を意識した学習がなされています。

豆酘(つつ)中学校の閉校式はいつ?

対馬市立豆酘中学校は、2026年(令和8年)3月31日で閉校になります。

さきがけて、同年3月8日(日曜日)の午前10時より、同時閉校する「豆酘小学校」とともに合同閉校記念式典が開催されます。

2026年(令和8年)4月1日より、豆酘中校区の子どもたちは対馬市厳原町久田の「久田(くた)中学校」へ通います。

豆酘(つつ)中学校の校歌
1.うず潮おどる 海原に
生命の光り てらしつつ
永久にゆるがぬ 燈台は
燃える希望の 道しるべ
いざ手を固く とりあって
学びの庭を 共にすすまん

2.広場の岸に うち寄せる
波の飛沫と 吹く風は
時代をのせて 音高く
わが学び舎の 窓たたく
いざその叫び その教え
明日への道を 共にきずかん

3.清き流れは 花さそい
千古のみどり 鳥は鳴く
誠に強く 胸はりて
教えし人の 夢せおい
いざ古き衣も ぬぎすてて
歓喜の橋を 共に渡らん

豆酘(つつ)中学校 [対馬市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 豆酘中学校
住所 〒817-0154 長崎県対馬市厳原町豆酘510
閉校年月日 2026年(令和8年)
沿革 1947年(昭和22年)4月1日 – 学制改革(六・三制の実施)旧・豆酘国民学校初等科が改組され、豆酘村立豆酘小学校となる。旧・豆酘国民学校高等科が改組され、「豆酘村立豆酘中学校」(新制中学校)となり、小学校に併設される。小学校校舎と、豆酘村字乱川の奥地にある旧・陸軍兵舎2棟を改装し、仮校舎として使用。
1948年(昭和23年)5月26日 – 育友会(PTA)が発足。9月30日 – 第一校舎・第二校舎が完成。
1953年(昭和28年)6月6日 – 暴風雨により、第二校舎が倒壊。
1955年(昭和30年)9月30日 – 豆酘626番地を買収の上、校地とし新校舎(第一期工事)が完成。10月25日 – 乱川の旧校舎を引き払い、新校舎に移転。
1956年(昭和31年)4月1日 – 小学校との併設を解消。9月26日 – 第二期工事が完了。9月30日 – 豆酘村が厳原町に編入され、「厳原町立豆酘中学校」に改称。
1957年(昭和32年)3月31日 – 厳原町立浅藻中学校を統合。5月24日 – へき地集会所(講堂)が完成。
1961年(昭和36年)6月26日 – 簡易水道が完成。8月9日 – 運動場拡張のために、前庭にあった神社三柱を多久頭魂神社境内に遷宮。12月13日 – 運動場の拡張が完了。
1962年(昭和37年)3月31日 – 第三期工事が完了。
1963年(昭和38年)3月16日 – 校歌を制定。
1964年(昭和39年)2月9日 – ミルク給食を開始。2月11日 – 校門柱が完成。
1966年(昭和41年)11月4日 – 準完全給食を開始。
1967年(昭和43年)1月18日 – 完全給食を開始。
1973年(昭和48年)- 校舎を増築し、家庭科室と理科室を設置。
1987年(昭和62年)8月31日 – 台風12号により被害を受ける。年内に復旧。
1989年(平成元年)3月 – 体育館が完成。4月 – 運動場を改修。
1991年(平成3年)7月29日 – 台風19号により被害を受ける。
1997年(平成9年)4月 – 現校地に新校舎が完成し、移転を完了。旧校地には後に豆酘小学校の校舎が建設された。
2004年(平成16年)3月1日 – 対馬市の発足に伴い、「対馬市立豆酘中学校」(現校名)となる。
2025年(令和7年)3月31日 – 対馬市豆酘学校給食共同調理場が閉鎖され、厳原学校給食共同調理場からの配送に変更となる。
2026年(令和8年)3月31日 – 対馬市立久田中学校に統合のため閉校。[1]

[1] 出典:Wikipedia

豆酘(つつ)中学校がある場所

豆酘(つつ)中学校がある場所

豆酘中学校校区(画像出典:学区マップ)

豆酘中学校がある場所は、長崎県対馬市の厳原町豆酘(つつ)です。

豆酘(つつ)は、国境の島「対馬」のほぼ南端部に位置する集落で、港町としてふるくからの歴史を有しますが、中心市街地「厳原」にくらべると、外との交流は限られ昔からの風習や習慣・方言が残ってきた地区です。

その代表が国の無形民俗文化財になっている赤米の伝統行事、亀トの神事、多久頭魂神社などで、古代からの文化財がおおく残っている特異な地域です。

また、豆酘崎などの風光明媚な景観地と、豊かな海の恵みをそなえもつ場所で、子どもたちは地域の人々に見守られながらスクスクと育っています。

豆酘中校区の歴史

豆酘中学校がある校区は、江戸時代までは対馬府中藩領でそれぞれ「豆酘(つつ)村」「豆酘瀬(つつせ)村」「佐須瀬(さすせ)村」と呼ばれていました。

ほかにも、豆酘内院村など、豆酘(つつ)と名前がつく村がありましたが、1908年(明治41年)の島嶼(とうしょ)町村制により、ほかの久和村・尾浦村・安神村・内山村・与良内院村と合併し、与良(よら)村が誕生します。

しかし、すぐ1912年(明治45年)には、豆酘(つつ)が分立して「豆酘村」を発足させ、残りの与良村と厳原(いづはら)町の一部(大字久田)が合併し、久田村が発足します。

1956年(昭和31年)、豆酘村は旧厳原町・久田村・佐須村が合併し、新設「厳原(いづはら)町」が発足しました。

2004年(平成16年)、厳原町はほかの美津島町・豊玉町・上県町・峰町・上対馬町と合併し、現在の「対馬(つしま)市」が発足となります。

現在、豆酘中学校がある校区の住所は長崎県対馬市の大字が厳原町で、小字がそれぞれ豆酘・佐須瀬・浅藻・豆酘瀬となっています。

豆酘地区の特産

豆酘(つつ)中学校校区の特産といえば、まず対馬きっての漁場である「豆酘漁港」「浅藻漁浦」でとれるヒオウギ貝・サザエ・寒ブリ・ヒラメ・ヒラマサ・マグロなどの魚介類が有名です。

また、豆酘は「稲作伝来の地」とされ、大陸から伝来したとされる古代米の一種「赤米」も名産として知られています。

ほかには、甘くておいしいと評判の「豆酘みかん」をはじめ、豆酘の夕陽ジャム・焦がし醤油プリン・海藻や珍味などの海産物加工品も人気で、豆酘にある「対馬 産直の駅」などでご購入いただけます。

豆酘中校区の名所

豆酘中校区の名所

豆酘の多久頭魂神社(画像出典:グーグルマップ)

多久頭魂神社

豆酘中学校には、国・県指定の重要文化財を多数所有している「多久頭魂(たくずだま)神社」があります。

対馬独特の神様をお祀りしている古社で、ふるくは対馬固有の多久頭魂=天道法師を祀り、龍良山をご神体として社殿はそのときはありませんでした。

神仏分離のさいに、禁足地のひとつ龍良山のふもとにある聖地「八丁角」の遥拝所として造営されたのが、今の社殿となります。

境内の経蔵には、「観音堂大経蔵」とよばれる高麗版の大経蔵(県指定有形文化財)があり、木版が韓国の伽耶山南印寺と合致しています。

また、豆酘の多久頭魂神社に置かれている「金鼓・梵鐘」も韓国にも例がないほどの大作で、社前の鐘楼にかかっている梵鐘は、1008年(平安時代・寛弘5年)に初めてつくられ、以後2回の改鋳がおこなわれたあとがあります。

その中には対馬の古族「阿比留(あびる)氏」の名前も見られます(国指定重要文化財)。

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対馬市とその地域 [長崎県]
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