豆酘(つつ)小学校 [令和8年閉校] 対馬市立
長崎県の廃校・校跡

豆酘(つつ)小学校 [令和8年閉校] 対馬市立

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『豆酘小学校 』は、長崎県対馬市の「豆酘小校区(豆酘・浅藻・豆酘瀬・佐須瀬)」の子どもたちが通っている創立150周年の歴史をもつ小学校です。

豆酘小は、対馬の小学校で唯一「制服」を採用している学校としても知られ、宮中献穀事業への参加をきっかけに豆酘地区の伝統である「赤米(あかごめ)」についての学習・赤米神田での米作りなどを実施しています。

豆酘(つつ)小学校の閉校式はいつ?

対馬市立豆酘小学校は、2026年(令和8年)3月31日で閉校になります。

さきがけて、同年3月8日(日曜日)の午前10時より、同時閉校する「豆酘中学校」とともに合同閉校記念式典が開催されます。

2026年(令和8年)4月1日より、豆酘小校区の子どもたちは対馬市厳原町久田の「久田(くた)小学校」へ通います。

豆酘(つつ)小学校の校歌
ただいま、豆酘(つつ)小学校の校歌の歌詞の情報を募集中です。ご存じの方は上記レビューより投稿をお願いいたします。

豆酘(つつ)小学校 [対馬市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 豆酘小学校
住所 〒817-0154 長崎県対馬市厳原町豆酘626
閉校年月日 2026年(令和8年)
沿革 1874年(明治7年)6月1日 – 豆酘に私塾が開校。間もなく「第五大学区第四中学区豆酘小学校」と改称。
1877年(明治10年)- 廃寺・自湛院(現・永泉寺南側)を校地と定める。
1879年(明治12年)3月8日 – 小茂田小学校に統合され、「公立中等小茂田小学校豆酘分校」となる。
1881年(明治14年)- 学区改正に伴い、小茂田学区から豆酘学区に変更。また小茂田小学校から独立し、「豆酘学区下等豆酘小学校」となる。
1886年(明治19年)6月 – 小学校令により、簡易科を設置し、「簡易豆酘小学校」と改称。
1891年(明治24年)9月 – 小学校令改正に伴い、「豆酘尋常小学校」と改称。浅藻分校と瀬分校を設置。後に内山分校を設置。
1898年(明治31年)11月 – 天道地に校舎が完成。
1899年(明治32年)4月12日 – 高等科を併置し、「豆酘尋常高等小学校」と改称。
1912年(明治45年)3月31日 – 3分校を廃止。瀬分校と内山分校は久田尋常小学校へ移管。浅藻分校は浅藻尋常小学校として独立。
1917年(大正6年)3月15日 – 新校舎建設のため、旧校舎を解体し、尋常科1~4年生は金剛院を、尋常科5年~高等科2年生までは永泉寺を仮校舎に分散授業を行う。11月9日 – 現在地に新校舎が完成し、移転。分散授業を解消。
1920年(大正9年)9月 – 豆酘実業補習学校を併設。
1923年(大正12年)4月7日 – 豆酘実業補習学校において男女青年を対象に夜間授業を行う。
1925年(大正14年)7月2日 – 図書室が完成。
1926年(大正15年)2月15日 – 豆酘校父兄会が発足。
1932年(昭和7年)10月19日 – 併設の実業補習学校を青年訓練認定豆酘実業補習学校とする。
1934年(昭和9年)12月6日 – 児童数増加のため増改築を行う。尋常科1年生は豆酘村役場、3・4年生は永泉寺、高等科は金剛院、その他は本校校舎で分散授業を開始。
1935年(昭和10年)4月1日 – 青年学校令により、併設の青訓認定豆酘実業補習学校を豆酘青年学校とする。
1941年(昭和16年)4月1日 – 国民学校令により、「豆酘村豆酘国民学校」に改称。尋常科を初等科に改称。5月3日 – 保護者会が発足。
1945年(昭和20年)5月12日 – 校舎が軍部隊駐屯に使用されることになり、児童を疎開させ、神社や海岸・林間で分散授業を行う。11月20日 – アメリカ軍ラッセル少佐の命により、校舎内から旧軍部隊の物資が旧・いだりごう兵舎に運び出され、校舎が復旧する。
1946年(昭和21年)5月27日 – 旧・いだりごう兵舎を高等科が使用開始。
1947年(昭和22年)4月1日 – 学制改革(六・三制)の実施。旧・国民学校初等科を改組し、「豆酘村立豆酘小学校」とする。旧・国民学校高等科を改組し、豆酘村立豆酘中学校(新制中学校)とし、小学校に併設する。
1948年(昭和23年)5月26日 – 保護者会が解散し、育友会(PTA)が発足。
1956年(昭和31年)4月1日 – 豆酘中学校の新校舎が完成し、移転。併設を解消。9月30日 – 豆酘村の厳原町編入に伴い、「厳原町立豆酘小学校」に改称。
1957年(昭和32年)2月24日 – 新校舎建設(第一期工事)に着工。
1961年(昭和36年)4月10日 – 新校舎(第二期工事)が完成。
1962年(昭和37年)4月1日 – 厳原町立久田小学校から瀬分校が移管される。(1912年(明治45年)に久田小学校に移管して以来、50年ぶりに豆酘小学校に復帰。)
1967年(昭和42年)10月23日 – 準給食から完全給食となる。
1968年(昭和43年)5月1日 – 厳原町立豆酘幼稚園を併設。
1972年(昭和47年)2月15日 – 校旗を制定。
2000年(平成12年)3月31日 – 厳原町立浅藻小学校を統合。この年 – 現在地(豆酘中学校の旧校地)に新校舎が完成し、移転を完了。
2004年(平成16年)3月1日 – 市町村合併に伴い、「対馬市立豆酘小学校」(現校名)に改称。
2008年(平成20年)3月31日 – 瀬分校を廃止し、本校に統合。
2011年(平成23年)3月31日 – 対馬市立豆酘幼稚園が閉園。
2025年(令和7年)3月31日 – 対馬市豆酘学校給食共同調理場が閉鎖され、厳原学校給食共同調理場からの配送に変更となる。
2026年(令和8年)3月31日 – 対馬市立久田小学校に統合のため閉校。[1]

[1] 出典:Wikipedia

対馬市立豆酘小学校の校舎

対馬市立豆酘小学校の校舎

豆酘の校舎は、お城のような時計台が特徴的な非常に美しい校舎です。

2000年(平成12年)に豆酘中学校の[旧校地]にあたらしく建設されました。

豆酘(つつ)小学校がある場所

豆酘(つつ)小学校がある場所

豆酘小学校校区(画像出典:学区マップ)

豆酘小学校がある場所は、長崎県対馬市の厳原町豆酘(つつ)です。

豆酘(つつ)は、国境の島「対馬」のほぼ南端部に位置する集落で、港町としてふるくからの歴史を有しますが、中心市街地「厳原」にくらべると、外との交流は限られ昔からの風習や習慣・方言が残ってきた地区です。

その代表が国の無形民俗文化財になっている赤米の伝統行事、亀トの神事、多久頭魂神社などで、古代からの文化財がおおく残っている特異な地域です。

また、豆酘崎などの風光明媚な景観地と、豊かな海の恵みをそなえもつ場所で、子どもたちは地域の人々に見守られながらスクスクと育っています。

豆酘小校区の歴史

豆酘小学校がある校区は、江戸時代までは対馬府中藩領でそれぞれ「豆酘(つつ)村」「豆酘瀬(つつせ)村」「佐須瀬(さすせ)村」と呼ばれていました。

ほかにも、豆酘内院村など、豆酘(つつ)と名前がつく村がありましたが、1908年(明治41年)の島嶼(とうしょ)町村制により、ほかの久和村・尾浦村・安神村・内山村・与良内院村と合併し、与良(よら)村が誕生します。

しかし、すぐ1912年(明治45年)には、豆酘(つつ)が分立して「豆酘村」を発足させ、残りの与良村と厳原(いづはら)町の一部(大字久田)が合併し、久田村が発足します。

1956年(昭和31年)、豆酘村は旧厳原町・久田村・佐須村が合併し、新設「厳原(いづはら)町」が発足しました。

2004年(平成16年)、厳原町はほかの美津島町・豊玉町・上県町・峰町・上対馬町と合併し、現在の「対馬(つしま)市」が発足となります。

現在、豆酘小学校がある校区の住所は長崎県対馬市の大字が厳原町で、小字がそれぞれ豆酘・佐須瀬・浅藻・豆酘瀬となっています。

豆酘地区の特産

豆酘(つつ)小学校校区の特産といえば、まず対馬きっての漁場である「豆酘漁港」「浅藻漁浦」でとれるヒオウギ貝・サザエ・寒ブリ・ヒラメ・ヒラマサ・マグロなどの魚介類が有名です。

また、豆酘は「稲作伝来の地」とされ、大陸から伝来したとされる古代米の一種「赤米」も名産として知られています。

ほかには、甘くておいしいと評判の「豆酘みかん」をはじめ、豆酘の夕陽ジャム・焦がし醤油プリン・海藻や珍味などの海産物加工品も人気で、豆酘にある「対馬 産直の駅」などでご購入いただけます。

豆酘小校区の伝統芸能

豆酘小校区の伝統芸能

豆酘の赤米行事(画像出典:文化庁)

豆酘の赤米行事

豆酘小校区の豆酘地区には、「赤米」を奉納する「赤米行事(あかごめ)」という伝統行事があります。

旧暦の1月10日の夜に、赤米が入った俵を当番の家が受けづく「頭受け」のほか、田植えや稲刈り、もちつきなど1年を通してさまざまな行事がくりひろげられます。

赤米神事は、1年に十回以上おこなわれ、頭仲間とよばれる組織で約千年以上のあいだ受け継がれ、日本古来の振興の形を残している貴重なもので、国の民俗文化財の指定を受けています。

豆酘地区は、大陸から稲作が伝わった土地として、ふるくから赤米を祀る慣習があり、赤米行事もそのひとつです。

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