求名(ぐみょう)地区【鹿児島県薩摩郡さつま町】

求名の中心部

求名の中心地、中福良

求名(ぐみょう)は、無形文化財「下手の鷹踊り」で有名な、鹿児島県薩摩郡さつま町にある地区です。

求名地区は、鹿児島県薩摩郡さつま町の東にあって、北側には大口針持地区(伊佐市)東側には永野地区(さつま町)南側には中津川地区(さつま町)西側には宮之城広瀬・鶴田地区(さつま町)と面しています。

町の中心は、求名小学校がある中福良と、さつま町役場薩摩支所がある広橋の2つの地区になります。

求名(ぐみょう)の地図

 

鹿児島県の薩摩郡さつま町にある「求名(ぐみょう)」とよばれる大字は、もともと求名村という自治体でした。

現在、求名にある集落に小字はついておりませんが、求名には

下手,下中福良,求名町,上中福良,未栄の郷,下狩宿,上狩宿,熊田,戸子田,広橋,黒島

の自治会・公民館があります。

求名(ぐみょう)の名前の由来

「モトメ」という字と「ナ」という字で求名とよぶのは、何か理由があるらしく、仏典から来たのではないか?とも考えられていましたが、その根拠はありません。

求名(ぐみょう)という土地が、もともと広い平野で、昔は排水の悪い沼地で、鴨や雁などの水鳥が多い場所で、狩猟地であったといいます。

或る年、お殿様が巡視に来た時に、領主がお殿様を猟=りょう(鳥獣をとらえること・狩猟)に案内しました。

お殿様は、ある民家に休憩しその主人に「ここの村の名前は何か?」と聞くと、「今は、人家が点々とできつつあるので、まだ、村名がありません。ゆえにお殿様、どうぞ村の名前をおつけください」と、嘆願したといいます。

そこでお殿様は、「予(われ)に、村名を求めたから、求名(ぐみょう)と名づけよ」とのことで、そう呼ぶようになったと伝えられています。

求名(ぐみょう)の変遷

 1889年(明治22年)宮之城村求名
 1922年(大正11年)求名村
 1954年(昭和29年)薩摩町求名
 2005年(平成17年)さつま町求名

求名(ぐみょう)地区の集落

求名(ぐみょう)地区の集落

求名地区の地図と農業集落境界 参照元:農林水産省

永野地区 上狩宿
下狩宿
境田

橋掛
上中福良
熊田
戸子田
広橋
下中福良
中組
求名町東
求名町西
羽有
小永田
黒鳥
求名の中心地① 中福良

現在は、鹿児島県薩摩郡さつま町の中にある「求名地区」ですが、かつては、中津川地区・永野地区・求名地区の3つを統括する「薩摩町」という別の自治体が存在していました。

飛び地ではありながら、求名地区は現・さつま町の中心地である宮之城村の一部として、存在していましたが、大正時代に入ると人口の増加にともない、1919年(大正8年)に鹿児島県知事あてに「求名村」としての分村陳述書を提出します。

求名の中心地

昭和30年代の求名商店街の様子

その時の中心地は、現在、求名小学校がある「中福良」です。この地域は、1935年(昭和10年)に国鉄宮之城線の開業にともない「薩摩求名駅」(現・下中福良公民館)が新設されたことで、駅から町の中心地までが昭和30年代をピークに栄えました。

求名の中心地② 広橋

その後、1954年(昭和29年)に中津川村と永野村とともに、求名村が合併して「薩摩町」が誕生し、当初は旧永野役場に本所が置かれましたが、その後、県道504号線沿いの求名広橋に役場(現・さつま町役場薩摩支所)と農協(現・JA北さつま薩摩支所)が置かれ、

3つの地区の中学校として「薩摩中学校」も広橋にでき、その周辺の商店街が栄えていきます。

時代の流れから、車社会となり宮之城の中心地まで車で、5分~10分で通えるようになったこと、1987年(昭和62年)求名薩摩駅が廃駅になったこと、2002年(平成14年)から県道504号線が北薩横断道路としてバイパスとなる分岐ができたことで、旧道の交通量が減少し、

求名地区(広橋)と永野地区の商店街は利用者が減りました。

求名の狩宿地区

求名には、同地区の北部に「狩宿(かりじゅく)」という地域があり、国道267号線沿いに、求名小学校狩宿分校がありました。

狩宿は、もともとお殿様が通る宿場町で、上狩宿・下狩宿を中心に町が栄え、現在もそこに狩宿簡易郵便局があります。狩宿には搦(からげ)という地域名もあり、七搦(ななからげ)という名字の方もそこを出身に、求名の中心部だった中福良で七搦酒店を営んでおられました。

搦(からげ)とは、狩りで獲った獲物をまとめていた場所という言い伝えがあります。狩宿という名前の由来のひとつになっているのではないでしょうか。

求名(ぐみょう)の飲食店・菓子屋・パン屋・お弁当屋・スーパーマーケット・道の駅・産地直売所

お食事処いちき 定食屋 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名4160−2
はなまる 居酒屋 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2743−5
ひろずし 寿司店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12533
淵脇 豆腐店 豆腐店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名3644−1
レモンストアー 閉業 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名3680
熊田製茶 茶葉販売店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名9551
お茶の美香園 茶葉販売店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名9485−1

求名(ぐみょう)の温泉・銭湯・大衆浴場・宿泊施設

さつまリゾートホテル ホテル 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名6122
薬師温泉 温泉 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名570

求名(ぐみょう)の神社・仏閣・史跡

音泉山 薩摩薬師寺 仏教寺院 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名570
稲富神社 神社 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2681
薩摩求名駅 廃線 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
求名橋 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
上狩宿の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
求名小学校狩宿分校跡 廃校 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名8202−2
境田城跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
下狩宿の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
上中福良の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
ある町医者の記念館 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名3356−11
中組の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
羽有の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
小永田の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
黒鳥の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
広橋の田の神 史跡 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
熊田橋 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名

求名(ぐみょう)の公共施設・教育・医療・スポーツ

求名小学校 小学校 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2735−7
錦光保育園 保育園 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2737
さつま町立 こども図書館~えほんの森~ 図書館 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12837番地
薩摩中学校 閉校 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12761−1
薩摩郵便局 郵便局 〒895-2299 鹿児島県薩摩郡さつま町求名3693−4
狩宿簡易郵便局 郵便局 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名5484−1
さつま町役場 薩摩支所 役場 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12837
さつま町 求名交流館 コミュニティセンター 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名3356−1
JA北さつま 薩摩支所 農協 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12533
さつま町B&G海洋センター プール 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12753−3
薩摩総合運動公園 公園 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名13620-1
さつま町商工会薩摩支所 商工会議所 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12753
大平ミニゴルフ場 ゴルフ場 〒895-2101 鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田6287−1

求名(ぐみょう)の生活サービス

コスモ石油 求名 SS (コナガタ石油) ガソリンスタンド 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名3676
Panasonic shop セブンプラザ薩摩店 電気店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名3683−2
Hair salon Bjorn(ビョーン) 美容院 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名12848−4
坂元美容室 美容院 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2723−2
小牧理容店 美容店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2730−20
ヤマト家具 家具店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名
8222工房 看板専門店 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2120

求名(ぐみょう)の歴史

鹿児島県薩摩郡さつま町にある「求名(ぐみょう)」の歴史について解説します。

古代・中世の求名地域の位置づけ

まず、求名地域の古代(平安時代)から中世(戦国時代)までの位置づけですが、まだ求名としての地域名が文献で登場していなかった時代であり、大きく分けて祁答院(けどういん)という土地の中に組み込まれていたようです。

祁答院12ヵ村の中の求名(ぐみょう)

1580年(安土・桃山時代)、祁答院という地域は今の藺牟田・大村・黒木があった町の一部ではなく、大きく

鶴田、求名、佐志、時吉、紫尾、柏原、湯田、船木、中津川、虎居、平川、久富木

の12個からなる村の集合体であり、その中に求名地域が表記されています。

古代から近世にかけて求名の支配者の変遷

 【平安時代】大前道助
 【鎌倉時代~室町時代】渋谷氏
 【安土桃山時代】島津氏・北郷氏
 【江戸時代】宮之城島津氏
平安時代の求名

まだ求名という表記が登場しない平安時代の大治六年(1131年ごろ)、大前道助(おおくまみちすけ)と呼ばれる支配者が、祁答院地方にいました。大前は「おおさき」とも読まれます。

続いて、康治元年(1142年)に薩摩国祁答院中津河名(現在の中津川地区)の名田を大前道助が所有していた文書が存在し、この大前氏が、時吉・重光という名前を使い分け、宮之城にあった虎居城・時吉城を築城したとされています。

大前氏は、平安時代まで権力があった朝廷から任ぜられた郡司(地方諸国の役人)でした。以後、源頼朝が関東武士団の棟梁となって平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いたころには、豪族たちを諸国に「地頭」として配置したため郡司は弱体化していきます。

鎌倉時代の求名

宝治2年(1248年)、関東に住む渋谷光重(しぶやみつしげ)が宝治合戦と呼ばれる鎌倉幕府の内乱において、戦争の恩賞として千葉氏が持っていた薩摩国の高城郡・東郷別府・入来院・祁答院の土地を、ときの幕府執権であった北条氏より下賜されます。

渋谷光重は、長男である渋谷重直(しぶやしげなお)に相模国の渋谷荘を与えたあと、残りの息子には薩摩国の東郷別府(次男・早川実重)、祁答院(三男・吉岡重保)、鶴田(四男・大谷重茂)、入来院(五男・曽司定心)、高城(六男・落合重定)をそれぞれ与え、兄弟たちは関東から、はるばる遠い九州へ下向することになります。

今回、求名地域に関係するのは、祁答院地区の吉岡重保で祁答院渋谷氏の初代となります。重保が一番最初に館を築いたのは柏原(さつま町柏原)であり、苗字も柏原氏と呼んでいました。まだ大前氏が虎居城にいたため両者は激しく対立し、大前氏が滅びると渋谷祁答院氏は、虎居城(さつま町宮之城)に入り本拠地としました。

島津氏の台頭

島津氏の祖である、島津忠久(しまづただひさ)=本姓・惟宗忠久(これむねのただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将でした。

文治元年(1185年)惟宗忠久は、島津荘とよばれる薩摩・大隅・日向の3か国がまたがる地域の地頭=下司職(荘園の現地で荘務をつかさどる地位)に任命されます。惟宗忠久が島津荘の惣地頭職(地頭を統括する)に任じられたことにより、島津氏と名乗るようになったと言われていますが、名乗る時期には諸説あります。

島津忠久は薩摩に実際には下向しておらず、鎌倉で活動を続けたといわれており、二代目の島津忠時(しまづただとき)も同じく、鎌倉で生涯を終えており、南九州には家臣の本田貞親(ほんださだちか)を下向させ、木牟礼に城を築かせ島津氏三州支配の基礎を作りました。

島津家が本格的に南九州に在地化したのは、元寇(モンゴル襲来)の時で、三代目島津久経(しまづひさつね)が下向し、続く四代目島津忠宗(しまづただむね)が初めて、薩摩の地で生涯を終えました。

その後、島津家が南九州に土着したのは五代目島津貞久(しまづさだひさ)以降です。

南北朝時代、島津貞久は武家方の守護として北朝側につき、祁答院・入来院・東郷らの渋谷一族は南朝側につきました。

室町時代の求名

祁答院渋谷氏は、南北朝・戦国時代と、守護である島津氏の内部抗争や、京都の南北朝の争い、そして外部勢力である相良氏の介入により、数多くの争いに巻き込まれていきます。

山引合戦

南北朝時代(吉野の南朝と京都の北朝と政府が2つあった時代)になると、北朝の室町幕府は九州の大半を支配していた南朝方の征西府軍(大宰府・懐良親王側)を倒すため「今川了俊(貞世)」という守護大名を九州探題に任命し九州に下向させます。

1375年(天授元年/永和元年)に山引合戦という戦いが、島津氏久と鶴田渋谷氏(北朝側)と肥後相良氏と鶴田氏以外の渋谷軍(南側)で、争われますが決着がついていません。

南九州国人一揆

1376年(天授2年/永和2年)、水島の変をきっかけに島津奥州家第6代氏久(うじひさ)・第7代伊久(これひさ)が北朝側から離反したため、島津氏と敵対するため薩摩・大隅・日向・肥後の国人(在地の実質上の領主)衆が結成され、南九州国人一揆がおこります。

水島の変で離反した島津氏久・伊久を討伐するため今川氏の末子「今川満範(いまがわみつのり)」を薩摩・大隅・日向の総大将として南九州に派遣し、南九州の国人衆とともに島津氏の掃討をめざします。

1377年(天授3年/永和3年)9月、島津氏久・伊久は一旦降伏したものの、北朝方の陥落目標である、南朝方の征西府がある都之城(北郷義久・樺山音久兄弟)への参陣を拒否したため、またもや今川方と決別しました。

1978年(永和4年/天授4年)冬に島津氏久側の北郷義久がいる都之城を包囲しますが、1979年(康暦元年/天授5年)3月には援軍にきた島津氏久軍に大敗し、南九州国人一揆軍は戦線を後退せざるを得なくなります。

1381年(弘和元年/永徳元年)10月、島津氏久は再び今川了俊に服従しながらも、一揆勢の所領に侵略をはじめたため、今川方として活動していた相良前頼、禰寝氏や伊集院氏が相次いで離反し、南九州国人一揆は事実上崩壊しました。

島津氏総州家と奥州家の対立

島津氏第5代当主、島津貞久(しまづさだひさ)の時代に嫡男の島津宗久(しまづむねひさ)が早くに亡くなり、貞久は三男の島津師久(しまづもろひさ)に薩摩国、四男の島津氏久(しまづうじひさ)に大隅国をそれぞれ、分割して守護職を分与しました。

ここで、島津家は総州家(師久)と奥州家(氏久)に分かれることとなり、南九州国人一揆の時はお互いに協力しあいましたが、それが終結したあとはお互いが脅威となり、対立が深まっていきました。

鶴田合戦

1392年(明徳2年)、南北朝統一後に島津総州家と島津奥州家の対立が激化します。

1401年(応永8年)、渋谷四族の祁答院氏・東郷氏・入来院氏・高城氏は島津伊久(総州家)に、鶴田氏は島津師久(奥州家)に分かれて決戦となります。

人吉の相良氏、大口の牛屎氏も渋谷四族に参加し、合計1万人を動員する大決戦が、鶴田の田間田という場所で繰り広げられました。

結果、渋谷鶴田氏は菱刈氏(現在伊佐市)をたよって、鶴田城を後にしここに渋谷鶴田氏は没落します。

文明の戦い

島津氏第10代立久(たつひさ)の子どもである島津氏第11代忠昌(ただまさ)の時代になると、島津氏の内紛や守護と豪族の争いが激しくなります。

渋谷氏は、幾多の戦いで分裂状態となり、東郷・入来院の渋谷二族は、島津忠昌側に付き祁答院渋谷氏は忠昌の反対勢力となりました。

1485年(文明17年)に、鉾之尾一帯で島津 忠廉(しまづ ただかど)8000騎と、祁答院重慶勢800人が戦っているが、勝敗はついていません。

島津氏が祁答院の当主に

1545年(天文14年)島津氏第15代島津貴久(たかひさ)の時代になり、幕府より正式に守護を任命されるも、国人(在地の実質上の領主)らは、いまだ島津氏に従わぬものが大半でした。

1554年(天文23年)には、蒲生範清(かもうのりきよ)が、島津側の大隅国肝付氏の加治木城を攻撃、島津氏は蒲生氏の戦闘を回避するため、岩剣城を攻撃しました。

これに、祁答院第13代良重(よししげ)は蒲生側につき、東郷氏・入来院氏も応援にかけつけたが、敗戦となり息子の田中重経(たなかしげつね)を失いました。

1566年(永禄9年)、祁答院良重は、寝室で自身の妻である虎姫によって殺され、領地経営が不能になり、入来院第13代の重嗣(しげつぐ)に譲渡されましたが、1569年(永禄12年)東郷氏とともに入来院氏も島津氏に降伏したため、以後は島津家臣になりました。

安土桃山時代の求名

1580年(天正8年)、島津歳久(としひさ)が平定された祁答院の十二郷の当主として、虎居城に入城しました。

宮之城島津家のはじまり

1595年(文禄4年)、豊臣秀吉が九州征伐に来た際に、北郷時久(ほんごうときひさ)という都之城(現・宮崎県)の領主が、島津側み味方し、戦に負けたため薩摩祁答院に移封(大名を他の領地へ移すこと)され、祁答院を宮之城と改めます。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いのあと西軍が撤退(島津義弘が破れる)し北郷氏が都之城に復帰となり、かわりに島津忠長(ただなが)が宮之城の地頭(領主)となりました。宮之城島津氏のはじまりです。

江戸時代~明治時代の求名

1614年(慶長19年)、島津久元(ひさもと)が宮之城領主となります。

1869年(明治2年)、鹿児島藩であった宮之城は郷として、屋地村、船木村、平川村、湯田村、柊野村、虎居村、時吉村、求名村とし、地頭の烏丸一六が管理します。

1889年(明治22年)、求名に七方限を定めました(下手・中福良・狩宿・熊田・戸子田・広橋・黒鳥)。

求名の初区長に、神田橋耕内が就任。求名共有金制度をつくる(各戸5銭宛て出し合い総額15円の基金に共有林の収入を加え、営業・生活・育英資金として貸し付けました)。

1890年(明治23年)、熊田地区の橋口善右衛門がはじめて養蚕をおこないます。

1901年(明治34年)、求名で松尾敬之助が自転車の乗り方を実演します。黒鳥に松野乙次郎が医院を開業します。熊田部落青年団結成。

1904年(明治37年)、求名の各部落に婦人会結成。

1909年(明治42年)、求名に神田橋英吉石が医院を開業。

1910年(明治43年)、中福良郵便取扱所開設。12月には求名郵便局と改称。

求名村として独立

1916年(大正5年)、求名の現浜松商店前に繭集荷場を建て、芝居小屋兼用としました。

1918年(大正7年)、求名村の果樹栽培見積本数 蜜柑1500本・柿1000本・梨2000本・栗5500本。

1919年(大正8年)6月1日 求名信徳寺を建立。6月28日、求名の分村陳情書を県知事あてに提出しました。

求名の戸数493戸、人口2828人

1922年(大正12年)求名村発足。初代村長に高城慶之助。村長は水車利用の製材所・精米所を前川河畔につくります。

1924年(大正13年)求名広橋の出石恒夫は、自動車旅客運送業をはじめ、永野~広橋~黒木~藺牟田経由で鹿児島1往復を運航しました。

1926年(昭和1年)、求名村養鶏組合が設立されます。

1927年(昭和2年)、大山自動車、求名~鹿児島間の定期運行をはじめます。

1928年(昭和3年)、求名村竹林組合を設立。県竹林品評会で優勝旗を獲得。

1931年(昭和6年)、求名の養蚕実態 養蚕戸数448戸 桑園面積123.5町

1932年(昭和7年)、求名に今村秀盛が歯科医院を開業します。

1935年(昭和10年)、宮之城線の薩摩鶴田駅~薩摩永野駅間開業にともなって一般駅として、薩摩求名駅が新設されます。

1945年(昭和20年)、米軍機来襲、求名駅と広橋鉄橋が爆弾投下され、焼失します。

1950年(昭和25年)、求名の茶園が14町7反に増加、そのかわり木綿栽培が減少。養蚕事業が不振のためラミーに切り替え本栽培がはじまります。

1951年(昭和26年)、求名狩宿簡易郵便局が業務を開始します。

薩摩町求名

1954年(昭和29年)、求名村・永野村・中津川村が合併し、薩摩町が発足します。役場本所は、旧永野役場に。求名・中津川は支所。

1960年(昭和35年)、求名下手の鷹踊りが県の無形文化財に指定されます。

さつま町求名

2005年(平成17年)、隣町である宮之城町・鶴田町・薩摩町と再び合併し、漢字ではない「さつま町求名」としてスタートしました。

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