永野(ながの)は、日本最大の産金量を誇った「永野金山」を有した鹿児島県薩摩郡さつま町にある地区です。
永野地区は、鹿児島県薩摩郡さつま町の東にあって、北側は伊佐市、東側は湧水町の幸田地区と、霧島市の山ヶ野・横川、西側はさつま町の中津川地区、町境には祁答院黒木地区、姶良市の堂山地区とも一部つながっています。
街の中心には、永野小学校・永野郵便局・薩摩永野駅(廃駅)があります。
このページの内容
永野地区の動画
永野(ながの)の地図
鹿児島県の薩摩郡さつま町にある「永野(ながの)」地区には、
と呼ばれる、名前の自治会・公民館があります。
永野(ながの)の変遷
永野(ながの)地区の集落
永野地区 | 丸山 若宮 永野上 永野下 鉱事場 山ノ平 平八重 山峯 仕明 丁町 寺元 駒ケ段 吉川 池山 薬師 段 岩元 新地 簗平 下別府 |
永野(ながの)の飲食店・青果店・菓子屋・パン屋・お弁当屋・スーパーマーケット・道の駅・産地直売所
さつま特産品直売所 梅の里薩摩 | 産地直売所 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野665 |
フレッシュくまだ | スーパー | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野1678−4 |
お食事処しらいと | 軽食店 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
みやわきフルーツ | 青果店 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
永野(ながの)の温泉・銭湯・大衆浴場・宿泊施設・名所
該当なし |
永野(ながの)の神社・仏閣・史跡・名所
永野金山跡 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
永野鉄道記念館 | 観光名所 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野884 |
小鷹の滝 | 観光名所 | 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
平八重川の滝 | 観光名所 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野3593 |
永野金山三番滝精錬所跡 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
泉福寺 | 仏教寺院 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野2625 |
南方神社 | 神社 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野5399 |
吉川の田の神 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
永野眼鏡橋 | 橋 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野3012 |
観音滝リゾート | 観光名所 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野7133−1 |
下丁場磨崖仏 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野1224 |
池山の田の神 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
薬師の田の神 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
薬師の棚田 | 景勝地 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
別府原古墳群 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
河鹿橋 | 橋 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野5665−5 |
金山橋 | 橋 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
年行寺跡 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
さか江橋 | 橋 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
胡麻目抗口 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
金山倶楽部 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野4557 |
山神橋 | 橋 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
永野小学校金山分校 | 史跡 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
九太郎橋 | 橋 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野 |
永野(ながの)の公共施設・教育・医療・スポーツ
永野小学校 | 小学校 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野2562 |
さつま町永野交流館 | コミュニティーセンター | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野941−1 |
永野郵便局 | 郵便局 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野937−2 |
永野金山郵便局 | 郵便局 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野4600−2 |
永野(ながの)の生活サービス
ひまわり美容室 | 美容院 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野4384 |
ENEOS 永野SS(水口商会) | ガソリンスタンド | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野937−2 |
山本金物店 | 金物店 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野915 |
薩摩びーどろ工芸 | ガラス工房 | 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野5665−5 |
永野(ながの)の歴史
鹿児島県薩摩郡さつま町の永野地区は、「永野金山」があることで、有名ですが、その歴史を紐解くことで永野の全体像が見えてきます。
永野地区が、歴史の文書として登場する時代まで、さかのぼってみましょう。
古代・中世の永野地域の位置づけ
永野地区は、大きく分けて現在のさつま町一帯となる「祁答院(けどういん)」と呼ばれる地域の中に組み込まれていました。
この祁答院は、のちの祁答院町(黒木・大村・藺牟田)となる薩摩川内市の一部ではなく、現・さつま町を意味する鶴田、求名、佐志、時吉、紫尾、柏原、湯田、船木、中津川、虎居、平川、久富木の12の集落の総称です。
上記の12の集落に「永野」の名前はありませんが、長野城という古いお城が、永野地区の観音滝の山に存在しており、この領主が祁答院氏だったので、祁答院地域に永野があったと考えて、妥当でしょう。
そして、鹿児島県薩摩郡さつま町の「永野地区」は、ふるくは「長野」と呼ばれており、歴史上にその地名が登場するのは、鎌倉時代からとなります。
ということで、永野地区の歴史のスタートは、祁答院氏、そしてそれ以前の支配者である大前道助を学ぶことから始まります。
古代から近世にかけて求名の支配者の変遷
平安時代の永野
まだ永野という表記が登場しない1131年(平安時代大治六年)ごろ、大前道助(おおくまみちすけ)と呼ばれる支配者が、祁答院地方にいました。大前は「おおさき」とも読まれます。
続いて、1142年(平安時代康治元年)に薩摩国祁答院中津河名(現在のさつま町中津川地区)の名田を大前道助が所有していた文書が存在し、この大前氏が、時吉・重光という名前を使い分け、宮之城(現・さつま町)にあった虎居城・時吉城を築城したとされています。
大前氏は、平安時代まで権力があった朝廷から任ぜられた郡司(地方諸国の役人)でした。以後、源頼朝が関東武士団の棟梁となって平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いたころには、豪族たちを諸国に「地頭」として配置したため郡司は弱体化していきます。
鎌倉時代の永野
1248年(鎌倉時代宝治2年)、関東に住む渋谷光重(しぶやみつしげ)が宝治合戦と呼ばれる鎌倉幕府の内乱において、戦争の恩賞として千葉氏が持っていた薩摩国の高城郡・東郷別府・入来院・祁答院の土地を、ときの幕府執権であった北条氏より下賜=かし(高貴の人が、身分の低い人に物を与えること)されます。
渋谷光重は、長男である渋谷重直(しぶやしげなお)に相模国の渋谷荘を与えたあと、残りの息子には薩摩国の東郷別府(次男・早川実重)、祁答院(三男・吉岡重保)、鶴田(四男・大谷重茂=重諸とも呼ばれる)、入来院(五男・曽司定心)、高城(六男・落合重定)をそれぞれ与え、兄弟たちは関東から、はるばる遠い九州へ下向(都から田舎にくること)することになります。
鶴田を与えられた渋谷家四男、大谷重茂(鶴田氏の祖)は承久の乱ですでに討ち死にしていたため、実際に鶴田に来たのは息子の大谷重行で、この重行の弟である谷口為重が長野(ながの)に入り、しだいに勢力を広げたと「薩摩町郷土史」には書かれています。
室町時代の永野
永野地区周辺(祁答院)の支配者であった渋谷氏ですが、鎌倉時代から室町時代にかけて、一気に勢力が弱まっていきます。
その原因は、島津氏の台頭にあります。
渋谷一族の弱体化と、島津氏の台頭
島津氏は、1185年(鎌倉時代文治元年)に将軍である源頼朝から、日本最大の荘園である島津荘の下司職(荘園の荘務をつかさどる地位)として、任命されます。
その後、薩摩国・大隅国(現・鹿児島県)日向国(現・宮崎県)の守護職(地方統治のため幕府から任命された官僚職)として任命されたことで、永野地区のあった薩摩国祁答院にも勢力が及んできます。
南北朝時代に入ると守護島津貞久(しまづさだひさ)は、1336年(室町時代建武3年)に足利尊氏側(北朝)に属し、九州内の南朝方の敵と攻防をくりかえしていきます。
1340年(室町時代暦応3年)、島津貞久は兵を収集し、南朝方の市来時家がいる市来城(現・日置市)を攻撃し、時家を降伏させ、続いて翌年の1341年(室町時代暦応4年)には、高城渋谷氏の一族である渋谷石見権守重棟(しげむね)の子=弥四郎重春が、渋谷千代童丸=鶴田(大谷)重成の子?の祁答院太郎丸名「長野城」を襲撃(放火)したため、薩摩守護であった島津貞久(道鑑)を通して幕府・九州探題に、弥四郎重春の放火罪を訴えています。
ここで、再び「長野(永野)」が登場しますが、難しい言葉ばかりで何のこっちゃとなりますが、当時の南北朝の争いに、島津家も入り込み、渋谷一族の中でも内紛が起こっていたということです。
その後、島津家も総州家と奥州家に分かれて、内紛が激化していきます。
鶴田合戦
1401年(室町時代応永8年)には、渋谷四族の祁答院氏・東郷氏・入来院氏・高城氏は島津伊久(総州家)と、鶴田氏は島津師久(奥州家)に分かれて決戦となります。
最終的に、この戦いで鶴田渋谷氏が敗れ、菱刈(現・伊佐市)に逃げたことで、鶴田渋谷氏は没落します。
1452年(室町時代享徳元年)、文書で島津氏によって、祁答院地域の検田=けんでん(農耕地の面積・耕作者・土質の調査)をおこなった際、長野(ながの)まで検田されたと残っています。
祁答院渋谷氏、没落
1532年~1555年(室町時代天文年間)、勢力の弱まっていた祁答院良重(祁答院氏第13代当主)は、菱刈氏・蒲生氏と組んで島津貴久=しまづたかひさ(島津氏第15代当主)に反旗をひるがえし、
1554年(室町時代天文23年)になると、菱刈・蒲生の連合軍が島津軍がいる加治木城を攻めます。
島津貴久は、加治木城を救うために息子の島津義久・義弘・歳久に祁答院良重(けどういんよししげ)が住んでいた「岩剣城」攻撃を命じます。
祁答院氏を救援にきた蒲生軍が、島津側に撃退されると祁答院良重は、孤立無援となったため「祁答院」に逃亡し、岩剣城は落城しました。
1566年(室町時代後期・永禄9年)、虎居城を本城としていた祁答院良重が夫人に暗殺され、領地経営が不可能になると、いったん「祁答院」の土地は同じ渋谷一族の入来院重嗣(入来院第13代当主)に譲渡されますが、
1569年(室町時代後期・永禄12年)には、入来院重嗣氏と同じ渋谷一族の東郷重尚氏(東郷氏第16代)の2族とも、島津氏に降伏し、以後は島津家臣として使えることになります。
戦国時代の永野
渋谷一族が帰順(服従)したことで、祁答院地方が平定され、島津貴久の三男である島津歳久(しまづとしひさ)が、祁答院を任されることになります。
この時の、祁答院は先にも述べた通り、現・さつま町(虎居・時吉・湯田・船木・平川・久富木・佐志・鶴田・柏原・紫尾・中津川・求名)の地域であり、歳久はここを治めました。
北郷時久の支配下
1592年(安土桃山時代・文禄元年)、島津歳久は天下統一をした豊臣秀吉の逆鱗にふれ、は竜ヶ水(現・鹿児島市吉野町)で自害し、領地が没収され、都城(現・宮崎県)を支配していた北郷時久(ほんごうときひさ)が、祁答院に移封(大名が他の領地に移動すること)してきました。
北郷家は、島津家に所縁があり、父である島津忠親(しまづただちか)が島津豊州家を継いだため、長男である時久が、北郷家の家督を相続した経緯があります。
豊臣秀吉によって、祁答院に移動させられた時に先の祁答院12か村にくわえ、その後の祁答院町となる永野・大村・藺牟田を含む30か村の領地が、北郷時久に与えられました。
この際、北郷氏は生まれ育った「都城」をおもって、祁答院の中心部を「宮之城」と名付けたとされています。
再び島津家領に
1599年(安土桃山時代・慶長4年)に、北郷氏が都城に戻ることになり、宮之城地頭には、東郷領主だった島津忠長(しまづただなが)がつくことになり、あらためて、宮之城島津家領となります。
江戸時代の永野
江戸時代に入ると、宮之城島津家が領主となります。
宮之城島津家の祖は、島津尚久(なおひさ)といい、相州島津忠良の三男として育ちます。尚久は、上記の「岩剣城の戦い」で活躍し、薩摩国鹿籠(しかもり)=現・枕崎市の領主となり、その子供である島津忠長(しまづただなが)も、戦攻を認められ国老にまでなるのですが、
1600年(安土桃山時代・慶長5年)、天下分け目の関ヶ原の戦いで西側(島津義弘側)についたため、島津忠長は、宮之城領主として移封(所領を別の場所に移すこと)されます。
以降、江戸時代には宮之城島津家は1万5700石を擁する薩摩藩一門家臣家として続きました。
永野(ながの)金山のはじまり
鹿児島県薩摩郡さつま町の永野地区の、一大産業であった「永野金山」のはじまりは、江戸時代初期までさかのぼります。
江尾時代初期に、宮之城郷佐志村(現・さつま町)の川で、金鉱石が発見され当時の薩摩藩藩主であった島津光久(しまづみつひさ)が、家臣である宮之城領主の島津久通(しまづひさみち)に、金鉱脈探索の指示を出します。
その際、石見銀山(島根県)で銀鉱.・石採掘の技術を習得していた内山与右衛門(うちやまようえもん)を呼び寄せて、探索にあたらせ2~3年後に永野で金鉱脈が発見されました。
金山町の発展
1640年(江戸時代・寛永17年)、永野金山の創業にあたって、近畿・中国・北九州地方から、金掘人夫があつまって、人口が2万人に達する時代がありました。
俗にいう「ゴールドラッシュ」ですね。
永野金山地区にあっては、当時の農民の自給自足生活はストップし、ひたすら金掘り一途に働かされ、くわえて商業人も必要となり、町屋も設置されました。
永野金山の町屋の地名は小字の町上・町下・上茶屋・中茶屋東・中茶屋西・中茶屋・茶屋平・茶屋下・二軒茶屋と残っていて、1644年(江戸時代・寛永末年)までに急ピッチで作られたようです。
採掘休止令と再開
永野金山(山ヶ野も含む)が金鉱山とわかると、2万人の鉱夫が150ヶ所あまりの採掘地と15ヶ所の選鉱所で働きはじめました。
しかし、採掘がスタートして1年を待たずして「幕府の採掘中止令」が下されます。
理由はいくつかあると考えられていて、①採掘量(産金量)の多さに幕府が薩摩藩の強大化につながると警戒した。②寛永の大飢饉への配慮 したのではないかといわれています。
金山発見から16年後、1656年(江戸時代・明暦2年)に再び採掘の再開許可がおり、その4年後、1660年(江戸時代・万治2年)には、日本の金山史上最高の産金量をあげるまでになりました。
再び、横川・山ヶ野金山をあわせて、2万人近くの鉱夫を募集したため、同地区に33ヶ所の町(永野には10町)が出現し、九州のなかで長崎に次いで2番目に大きな色町(歓楽街)もできるほど、賑わっていました。
永野金山の採掘方法
永野から山ヶ野(霧島市)までの12キロメートルの四方全域を柵で囲み、日本全国から金を掘る人を2万人募集したことで、昼夜をとわず、山を崩し岩を削る音が響き渡ったといいます。
山には、金山奉行のもとに物・山・町の三奉行と、それぞれの役所が置かれ、50条以上の掟が定めれました。
鉱脈を追うにしたがい、作業がどんどん困難となりました。人間が入れるくらいのせまい穴にローソクの火をたよりに、1日30センチほどしか進めず、くだいた石の粉で息をするのも困難、病気やケガがあいつぎ、仕事がきつくて逃げだす人もでたといいます。
金山地区の人口と生業
永野金山(山ヶ野を含む)の産金量は、閉山まで58トンを産出し、そこで金山に依存して経営・生活していた人の人口が、1万2000人(戸数は1500戸)あまりで、その3分の1が永野地区です。
永野金山の人々の暮らしは、自稼製錬とよばれるもので、大正10年ごろまで水車を利用して製錬したあと、金を鉱山役所に納入し、納入高によって代価を受け取って生活していたといわれています。
永野金山の近代化
1900年(明治33年)になると、島津家経営だった山ヶ野金山(永野金山)を鉱業館とし、その館長に就任した「蒲生仙(かもうせん)」が、自稼製錬を奨励し、地区は盛況していきます。
1904年(明治37年)に事業拡張の議論をおこし、工学博士である五代龍作(ごだいりゅうさく)を館長にバトンタッチし、82万円(現在の価値で9億円前後)をもって、設計に着手し永野に最新式の三番滝精錬所を築き、胡麻目抗の掘進と三番滝堅抗の開削も実施しました。
明治以降の永野村
以上のように、永野村はもともと農村地帯だった祁答院地区(現・さつま町)と、江戸時代から急速に発展した永野金山の町と2つの大きな集落構成であったといえます。
1869年(明治2年)になると、薩摩藩(現・鹿児島県)は古くからの地頭(地主・盟主)政治がゆるくなったため、同年に各郷(数村を合わせたもの)にて常備隊を編成することとなり、郷村の合併と分割がおこなわれました。
太良郷永野村
そこで、最初に組み込まれたのが太良郷です。
永野地区は、もともと曽木郷の飛び地として扱われ、同年の郷編成のときに曽木地区・針持地区・本城地区(いずれも伊佐市)と合計、四村があわせて、太良郷ができました。
分村運動
永野は、土地的に現・伊佐市の針持・曽木とつながってはいたものの、太良郷の中心部となる曽木までは地理的にも不便で、不利益が多く曽木麓からも一浦郷として、軽視されたといわれています。
また夫役=ぶやく(人民に強制的に課せられた労働)の日に、永野地区から曽木(伊佐市)まで、10キロの距離を徒歩で歩かないといけなく、激しい労働のあと夜遅く永野地区に帰りついたり、時には米を背負って泊まり込みで出かける人も少なくなかったといいます。
納めていた米も、最終的に宮之城藩の倉庫(藩庫)に運ぶのですが、いったん曽木まで運んでから舟を乗り継ぎ、再び川内川を下るという不合理な方法も続いていました(直接、宮之城に送ったほうが距離的に近いという意味です)。
そして、明治時代に「永野村」としての自治体になる分村独立の気運が高まっていったのですが、残念ながら曽木側は「時期尚早」という理由で、同意してもらえず、逆に独立を阻止する態度に出られたといいます。
永野村独立
1881年(明治14年)永野住民の決意は固く、永野村の独立分村が実現しました。
余談として、永野という漢字はこの分村独立まで、大部分の文書において「長野」という漢字があてがわれていました。
同年10月、ついに太良郷から分村独立した永野村は、役場を現・アロン電機の西側(永野小学校の一隅)に設け、第一歩を踏み出しましたが、その7年後の1888年(明治21年)に明治政府が新しい市町村制が制定されたため、
実際には、翌年1889年(明治22年)4月から、公法人の資格が整えられ、はじめて永野村は自治体として動きだします。
1903年(明治36年)当時の永野金山(永野鉱業館長:五代龍作)から寄付があり、そのお金を含め、学校建築などの基本財産の確保をすすめていきました。
金山と農業の2つを主として発展してきた永野地区は、この時、村を南・岡・丁場・金山の4区にわけて、各集落に1名ずつ付属員を任命して、行政を浸透させていきました。
1911年(明治44年)永野村の経済状況はよくなく、村の発展のため樹木の増殖、生産の増強、経費節減、指導体制の強化をかかげ、永野地区にて、養蚕業・茶業・造林・果樹・貯蓄の計画がたてられました。
金山地区の賑わい
農業地区としての永野地区の反面、金山としての永野は、また違った様相を呈していました。
江戸時代から掘り出されていた、有名な金山地区なだけに、7軒の料理屋(大正初期ごろまで)が並び、終夜嬌声が絶える間がなかった歓楽街でもあったといいます。
となると、永野金山に住むものは、地区外からの出稼ぎが多く、自分の稼いだ以上にお金を使う派手な生活をするものも少なくなかったといいます。その遊興(酒色・宴会に興ずること)のあげく、借金を重ね先祖伝来の田畑を抵当ににし、最終的には家屋敷・田畑を手放す人も多かったそうです。
永野地区の産業の発展
永野金山をのぞく、永野地区の産業の発展の歴史には、稲作以外に以下のものがあります。
畜産
1911年(明治44年)の永野村の牛馬飼育頭数は、牛377頭・馬408頭で馬の飼育数が多かったようです。
1950年(昭和25年)には、馬の飼育数が減少しましたが、これは耕地の狭い永野地区には牛の方が適し、肉牛の価値があがったためです。
養蚕
1897年(明治30年)ごろより、日本全国で養蚕が奨励されていたようで、永野地区も大正から昭和にかけて、養蚕戸数(世帯)304戸、桑園71町とピークを迎えました。
しかし、その後は太平洋戦争の勃発・世界大恐慌によって価格が変動し、永野地区の養蚕業は衰弱していきました。
林業
1941年(昭和16年)に、永野村森林組合が設立し、当時は戦時中なので軍需資材の供出が主な事業だったようです。
戦後は、組合の発展を積極的にすすめ、終戦後の人口増加にともない、家屋の建設が盛んになり、平木木場の設置、1948年(昭和23年)には製材工場を薩摩永野駅横に建設しました。
薩摩町永野
自治体として頑張ってきた永野村でしたが、1954年(昭和29年)に「昭和の大合併」がおこり、町村合併促進法の第3条である「町村はおおむね、8000人以上の住民を有するを標準」に満たしていなかったため、
隣町であった、求名村・中津川村と新設合併し、大字を含め「薩摩町」の一部となりました。
さつま町永野
2005年(平成17年)には、さらに隣町である宮之城町・鶴田町と再び合併し、漢字ではない「さつま町永野」としてスタートしました。
永野地区の伝統文化
永野地区の伝統文化として、「岩元の秋津舞」と、金山に関係する宮之城時吉の「金山踊り」があります。
地域のお祭りとしては、永野地区の南方神社例大祭で奉納される「秋津舞」と「兵児踊り」が有名です。
秋津舞は、あきすめろと呼ばれているようです。
1597年(安土桃山時代・慶長2年)島津義弘が豊臣秀吉の指示で朝鮮出兵した際に、敵の援軍を破って「薩摩隼人」の勇名をとどろかせて凱旋した記念に、将兵の士気を高める(鼓舞)するための踊りです。
構成は、入れ太鼓2名・かね4~8名・太鼓10名前後、合計20人程度で、①勢ぞろい②出陣③攻撃④凱旋 の様子を、それぞれ隊形を変えながら、勇ましく激しく踊る太鼓踊りになります。
永野地区では、かごしま地域塾として登録された「永野兵児塾」の取り組みの一環として、『秋津舞』が伝承されています。