中津川(なかつがわ)は、「金吾様踊り」などの伝統行事が残る鹿児島県薩摩郡さつま町の地区です。北側は同さつま町の永野地区・求名地区・佐志地区、南側は薩摩川内市の黒木地区と隣接し、一部の中津川地区は姶良市山田・霧島市横川の町境に位置しています。
中津川(なかつがわ)の地図
鹿児島県の薩摩郡さつま町にある「中津川(なかつがわ)」地区には、
と呼ばれる、名前の自治会・公民館があります。
上記が現在も残る、中津川の古い地名になりますが、大きく分けると大村(現・薩摩川内市)の飛び地として存在していた、北方村と南方村が中津川地区の構成になります。
中津川(なかつがわ)の変遷
中津川(なかつがわ)地区の集落
旧北方村 | 中津川村大字北方
尾原公民会 武白猿公民会 北方町公民会 |
旧南方村 | 中津川村大字南方
別野公民会 弓之尾公民会 |
中津川(なかつがわ)の飲食店・菓子屋・パン屋・お弁当屋・スーパーマーケット・道の駅・産地直売所
段ストアー | スーパー | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川1991−1 |
食彩みやわき | 飲食店 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川1926 |
中津川(なかっこ) | 居酒屋 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川1727−2 |
こずえ | 蕎麦店 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川5252 |
尾付野商店 | スーパー | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川9558−1 |
中津川(なかつがわ)の温泉・銭湯・大衆浴場・宿泊施設
該当なし |
中津川(なかつがわ)の神社・仏閣・史跡・名所
大石神社 | 神社 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川2234 |
別野の田の神 | 史跡 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川3293−1 |
弓之尾下の田の神 | 史跡 | 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川 |
白鳥神社 | 神社 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川6557 |
武白猿の田の神 | 史跡 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川5175 |
永江ノ滝 | 観光名所 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川 |
中津川(なかつがわ)の公共施設・教育・医療・スポーツ
中津川小学校 | 小学校 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川4269 |
恵光保育園 | 保育園 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川1986−1 |
なかっこ地元ゴルフ場 | 同好会 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川 |
中津川郵便局 | 郵便局 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川1989−4 |
JA北さつま 堆肥センター | 役場 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川8900 |
さつま町 中津川交流館 | コミュニティセンター | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川2009 |
永江ん滝公園 | 公園 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川 |
中津川(なかつがわ)の生活サービス
ひまわり美容室 | 美容院 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川4384 |
中津川(なかつがわ)の歴史
鹿児島県薩摩郡さつま町にある「中津川(なかつがわ)」の歴史について解説します。
古代・中世の中津川地域の位置づけ
北方村と南方村に分かれて、その後合併して中津川村(現・さつま町)になった中津川地区ですが、
古代は、大きく「祁答院(けどういん)」という地域の中で、地名が存在していました。
平安時代の中津川
現在の薩摩川内市の一部(旧・祁答院町)を指すものではなく、広い意味で、鶴田、求名、佐志、時吉、紫尾、柏原、湯田、船木、中津川、虎居、平川、久富木の12の集落を、祁答院と呼んでいました。
これは、現在の「さつま町」に相当する地域であり、その祁答院の最初の支配者は、大前道助(おおくまみちすけ)という名前で、1131年(平安時代大治6年)にまでさかのぼります。
1142年(平安時代康治元年)には、中津川地区の名田(土地を所有している農民の名前をつけた田地のこと)を大前道助が所有していた文書が存在しています。記載では、薩摩国祁答院中津河名と書かれています。
その後も、中津川氏という名字は、当時の権力者であった渋谷一族の惟重(吉岡重保の次男)や、行重が名乗って、継いでいかれました。
室町時代の中津川
1248年(鎌倉時代宝治2年)になると、地頭として関東からきた吉岡重保(渋谷重直の三男)が新しく祁答院地区につき、初代祁答院渋谷氏と名乗るようになってから、郡司(地方諸国の役人)の大前氏と激しく対立し、台頭していきます。
1375年(室町時代天授元年)になると、祁答院渋谷氏は親戚であった入来院・東郷らの渋谷一族とともに、京都の南北朝の争いに巻き込まれ、南朝側につきました。
この際、鶴田渋谷氏が北朝側について、渋谷一族の中にも混乱が生じ、その後、日向国(現・宮崎県)の下司職(荘園の現地で荘務をつかさどる地位)だった島津家も勢力を伸ばしながら、その戦いに参加するようになります。
1401年(室町時代応永8年)には、島津家の内乱(総州家と奥州家)に、渋谷四族が巻き込まれ、祁答院渋谷氏も参加し、現在のさつま町鶴田で合戦がおこなわれました。
この戦いで敗れた、渋谷鶴田氏は鶴田城をあとにし没落(栄えたいたものが滅びること)していきます。
1485年(室町時代文明17年)ごろ、残された渋谷一族も分裂状態になり、東郷渋谷氏・入来院渋谷氏の2族と、祁答院渋谷氏側にわかれて、島津家の内紛に参加するようになり、次第に勢力が弱まっていきます。
1566年(室町時代永禄9年)に、祁答院渋谷氏の良重が、寝室で自分の妻である虎姫によって殺されたため、祁答院の領地経営ができなくなり、入来院渋谷氏に譲渡しましたが、東郷渋谷氏とともに島津氏に降伏したため、以後、渋谷一族は、島津家臣となりました。
戦国時代~江戸時代の中津川
1580年(安土桃山時代天正8年)に、島津歳久(しまづとしひさ)が、平定された祁答院十二郷の当主として、虎居城(現・さつま町宮之城)に入城します。
この島津歳久を、祁答院島津家の初代「金吾左衛門尉歳久」として祀っているのが、中津川にある「大石神社」であり、秋季大祭に奉納される踊りが、金吾様踊りです。
近代の中津川地区
江戸時代末期から、明治時代初期にかけて、中津川地区は「北方村」と「南方村」の二村に分かれていました。
明治時代初期の中津川
北方村
中津川地区にあった北方村は、その名の通り、穴川の支流「北方川」周辺に住まれていた人々の集落です。当時は、大村郷に属していました。
南方村
中津川地区にあった南方は、川内川支流の「南方川」を中心に栄えた集落です。同じく大村郷に属していました。
大村郷北方・南方
1897年(明治30年)の郡制施行のため、薩摩郡が発足したときには飛び地ではありましたが、中津川地区は「大村」に組み込まれました。
中津川村の分村運動
中津川地区(南方・北方)は、大村の飛び地で、黒木村と求名村にはさまれ、北方川と南方川の流域にひらけた水田は、地味豊かで「大村の穀倉地帯」といわれるまででした。
しかし、政治・経済ともに大村地区(麓)の支配下にあった中津川地区は、はやくから独立したいという願望があったそうです。
先の1897年(明治30年)の郡制施行の大村編入よりまえに、1889年(明治22年)の町村施行のタイミングで、「飛び地という日常の不便さを解消したい」と分村の議論がおこりましたが、時期尚早と打ち消されました。
戦後、分村運動が激化
1945年(昭和20年)太平洋戦争が終結して、民主主義国家として日本の諸制度が根本から改革されていた時期に、ふたたび「中津川地区」の分村の気運が高まりました。
1946年(昭和21年)の大村議会にて、中津川出身の議員による「分村の議」が提案されましたが、正式議題として取り上げられませんでした。
分村推進委員と協議会結成
中津川村を独立させようと、その後も中津川住民から「分村推進委員」を選出して、協議会を結成し急進派の森永氏を筆頭に、青年団や婦人会も直接近郷の数か村を訪問して、
村の運営状況や財政事情を調査して、中津川地区と比較し、独立の可能性をみきわめたうえ「青年団員」を手分けして、大村の議員に個別して訪問し協力を要請しました。
三度目の協議
1947年(昭和22年)みたび、中津川分村の件が協議されましたが、慎重論派が多くを占め、しばらく「調査期間」を置くことだけで終わってしまいました。
1948年(昭和23年)臨時議会において、中津川出身議員らが調査期間は、充分経過したとして「分村の件」を強く要望した結果、定例議会で「正式議案」として話し合うこととなり、議論のすえ「中津川分村」は可決されました。
中津川村の独立
1949年(昭和24年)、前年の鹿児島県議会を経て、中津川村が発足しました。
当時の中津川の人口は2,745人でした。
中津川分村の理由
『鹿児島県市町村変遷史』には、中津川分村の理由として以下が書かれています。
- 北方区・南方区に分村の動機がおこったのは20数年前、両区の壮年会総会において議論されたが、当時は人的・物的にやや困難な点があった。しかし、その後も間断なく検討され、終戦と同時に人的に恵まれ、各種産業は発展し経済的にも活気を呈し、民論が尊重され分損問題が具体的に提案されるに至った。
- 距離沿革のため、交通・通信・連絡が不便である。(以下略)
- 飛び地の存在が非民主的で、現代社会には非合理な形態である。南方北方両区民が役場(大村)に所用または諸行事・集会等の場合は、必ず他村(黒木村)を通過せねばならない。このことは時間的にも不経済であり、ことに精神的に不快な感情と衝動を与える
上記のほかにも全部で5項にもよる、熱い分村希望でした。
3番目が、車社会のいまとなってはとても不思議な項目といえます。不快な感情とあるのは、当時、黒木村が武家社会からの士族の集まりが多かったことと、中津川が農民が多い集まりであったことの因果関係があると、地域の方が話してくれました。
昔から、12月の年の瀬になると中津川から米俵を積んだ大八車(荷車)が重い年貢を納めるために、黒木地区を通って大村までいくのを、黒木の住民(士族)がよく見ていたといいます。
しかし、戦後の中津川地区は主産業であった農林業が好調であったため、他の地区と肩を並べるほどの独立した自治体として認められたのでした。
薩摩町中津川
1954年(昭和29年)の国策の「昭和の大合併」において、中津川村は適正規模である1万2000人の人口を下回っていたため、隣村である求名村・永野村と新設合併し、、薩摩町中津川としてスタートしました。
薩摩町中津川
2005年(平成17年)には、薩摩町も隣町であった宮之城町・鶴田町とあらたに合併し、さつま町の一部となりました。
中津川地区の伝統文化
中津川地区にある大石神社でくりひろげられる地域の伝統芸能が「金吾様踊り」です。
祁答院島津家初代・島津歳久(しまづとしひさ)は、中津川の人々から「金吾様」として親しまれてきました。それは、長年祁答院の地域に戦乱が続いていたことと、島津歳久がきてから平和が続いたことに由来します。
さつま町中津川地区の5つの集落が一同に集まって、各集落ごとに伝承されている踊りを、大石神社に奉納します。
教育面での中津川と祁答院黒木との関係
中津川地区を教育面を語るうえで、忘れてはならないのは町境を隔てて、南側に位置している黒木地区との関係性です。
黒木地区は、現在は薩摩川内市。中津川地区はさつま町にあり、別の市町村として存在していますが、昔から交流が多く、つながりがありました。
その理由は、山越えをしなくてもつながっていた土地と、1897年(明治30年)に大村に編入されたことが大きいでしょう。
1949年(昭和24年)に中津川村として独立した時も、大村役場に勤務していた中津川出身の職員で構成されていました。
教育面でも、大村時代には北方村と南方村の学校で、北南小学校(現・中津川小学校)として創立されました。中学校にかんしては、中津川単独では生徒数が少なかったため、隣町の黒木村と共同で「黒木村中津村組合立明和中学校」を運営していた歴史があります。
当初は、北南小学校区と黒木小学校区で、分散して授業をしていましたが、黒木村字八女と中津川村南方字段の村境に新校舎が作られ、黒木地区が祁答院町・中津川地区が薩摩町になり、1970年(昭和45年)に薩摩中学校と祁答院中学校のそれぞれの新校舎が完成するまで、明和中学校の校舎は活用されていました。
薩摩町と祁答院町の中学校再編時期が違うので、最後1年間だけ黒木中学校という名前になりました。