黒木(くろき)地区【鹿児島県薩摩川内市祁答院町】

黒木(くろき)地区【鹿児島県薩摩川内市】

黒木地区の黒木村役場跡

黒木(くろき)は、「鷹踊り」などの伝統行事が残る鹿児島県薩摩川内市の地区です。北側はさつま町の中津川地区、西側は祁答院町大村、南側は蒲生町漆、東側は姶良市北山と隣接し、一部の黒木地区は霧島市横川の町境に位置しています。

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黒木地区の動画

黒木(くろき)の地図

鹿児島県の薩摩郡さつま町にある「黒木(くろき)」地区には、

木場(こば)、矢立(やたて)、浦(うら)、中(なか)、宮脇(みやわき)、本町(ほんまち)、宇都(うと)、南(みなみ)、小牧(こまき)

と呼ばれる、名前の自治会・公民館があります。

黒木(くろき)の変遷

 1886年(明治元年)黒木郷黒木村
 1889年(明治22年)黒木村
 1955年(昭和30年)祁答院黒木
 2004年(平成16年)薩摩川内市祁答院町黒木

黒木(くろき)地区の集落

黒木(くろき)地区の集落

黒木地区の地図と農業集落境界 参照元:農林水産省

黒木地区 木場(こば)
矢立(やたて)
仁八(にはち)
浦(うら)
加治屋ケ丸
中黒木(なかくろき)
小牧(こまき)
南下(みなみしも)
南方(みなみかた)
中下(なかしも)
中上(なかかみ)
本町(もとまち)
南上(みなみかみ)
宮脇(みやわき)
東(ひがし)

黒木(くろき)の飲食店・菓子屋・パン屋・お弁当屋・スーパーマーケット・道の駅・産地直売所

黒木(くろき)の飲食店・菓子屋・パン屋・お弁当屋・スーパーマーケット・道の駅・産地直売所

ラーメン屋「黒木食堂」鹿児島県薩摩川内市

黒木食堂 ラーメン屋 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木295−1
囲炉裏 レストラン 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木209−2
高崎牛自動販売機 肉店 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木 84番地1
松田商店 酒店 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木293−8
中野商店 商店 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木

黒木(くろき)の温泉・銭湯・大衆浴場・宿泊施設

黒木(くろき)の温泉・銭湯・大衆浴場・宿泊施設

黒木温泉【鹿児島県薩摩川内市】

黒木温泉公衆浴場 温泉 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木26

黒木(くろき)の神社・仏閣・史跡・名所

黒木(くろき)の神社・仏閣・史跡・名所

大楠(大王)神社にある黒木の大楠【鹿児島県薩摩川内市】

明和中学校跡 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木6165番地
黒木小仮校舎跡 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木817−4
大楠神社 神社 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木4129
中黒木神社 神社 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
豊州島津家菩提寺(瑞泉山永源寺跡) 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木167
常永寺 仏教寺院 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木217
円明院跡 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
金剛明王像 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
愛宕神社 神社 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
豊州島津家石塔群 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
鈴連の滝 景勝地 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
浦の馬頭観音 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
仁王像 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木1310−1
伝説の力石 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
宮脇の馬頭観音 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
小牧の馬頭観音 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
本町の馬頭観音 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
丸木橋 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
小牧の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
南の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
蔵山の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
下会田の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
黒木宮脇の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
中黒木の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
浦の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
黒木仁八の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
矢立の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
木場熊川内の田の神 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
堂之迫六地蔵塔 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木
明治の道標 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木99−6
黒木の大楠 名所 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木4128
石ぐら 史跡 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木

黒木(くろき)の公共施設・教育・医療・スポーツ

黒木小学校 小学校 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木123
黒木わいわいクラブ 青少年団体 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木185
矢立農村公園 せせらぎの里 公園 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木2193
薩摩黒木簡易郵便局 郵便局 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木26−5
薩摩川内市黒木地区コミュニティセンター コミュニティ センター 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木87−1

黒木(くろき)の生活サービス

理容キョート 理容店 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木4068−1
ひさご美容室 美容院 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木818-1
理容コダマ 理容店 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木293-10
黒木整体 genki switch 整体 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木817−4
尚栄米店 米販売店 〒895-1504 鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木5205−1

黒木(くろき)の歴史

黒木地区の歴史

黒木地区にある恵比寿天と弁財天【鹿児島県薩摩川内市】

鹿児島県薩摩川内市の黒木地区の歴史は、関係性が深いお隣の「中津川地区」が農民人口が多かったのに対し、黒木地区は、島津宗家の家臣が暮らした武家社会を構成していった歴史といえます。

残念ながら、黒木という地名が古代から登場するわけではありませんが、重要視するべきは黒木地区が「黒木郷」として発展していった江戸前期(1634年=寛永11年)以降ではないでしょうか。

それをふまえ、日本の古代・中世史のなかでの黒木地域の動きは、大きく薩摩国の「祁答院」の一部として存在していた。とゆるく、認識しておくとよいでしょう。

古代・中世の黒木地域の位置づけ

黒木という文字が、文書に登場するのが室町時代に入ってからになるのですが、ではそれまでは黒木の土地はどうなっていたのか?というと、祁答院とよばれる12に分かれる村(鶴田、求名、佐志、時吉、紫尾、柏原、湯田、船木、中津川、虎居、平川、久富木)の中津川あたりの地区として認識されていたようです。

つまり、薩摩国祁答院であったということです。

古代から近世にかけて求名の支配者の変遷

 【平安時代】大前道助
 【鎌倉時代~室町時代】祁答院渋谷氏
 【安土桃山時代】島津氏・北郷氏
 【江戸時代】豊州島津氏
平安時代の黒木
黒木(くろき)地区の集落

祁答院黒木地区の地図と小字

まだ黒木という表記が登場しない平安時代の大治六年(1131年ごろ)、大前道助(おおくまみちすけ)と呼ばれる支配者が、祁答院地方にいました。大前は「おおさき」とも読まれます。

続いて、康治元年(1142年)に薩摩国祁答院中津河名(現在の中津川地区)の名田を大前道助が所有していた文書が存在し、この大前氏が、時吉・重光という名前を使い分け、宮之城(現・さつま町)にあった虎居城・時吉城を築城したとされています。

大前氏は、平安時代まで権力があった朝廷から任ぜられた郡司(地方諸国の役人)でした。以後、源頼朝が関東武士団の棟梁となって平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いたころには、豪族たちを諸国に「地頭」として配置したため郡司は弱体化していきます。

鎌倉時代の黒木
鎌倉時代の黒木

黒木地区宮脇の馬頭観音像【鹿児島県薩摩川内市】

1248年(宝治2年)、関東に住む渋谷光重(しぶやみつしげ)が宝治合戦と呼ばれる鎌倉幕府の内乱において、戦争の恩賞として千葉氏が持っていた薩摩国の高城郡・東郷別府・入来院・祁答院の土地を、ときの幕府執権であった北条氏より下賜(高貴の人が、身分の低い人に物を与えること)されます。

渋谷光重は、長男である渋谷重直(しぶやしげなお)に相模国の渋谷荘を与えたあと、残りの息子には薩摩国の東郷別府(次男・早川実重)、祁答院(三男・吉岡重保)、鶴田(四男・大谷重茂)、入来院(五男・曽司定心)、高城(六男・落合重定)をそれぞれ与え、兄弟たちは関東から、はるばる遠い九州へ下向(都から田舎へ行くこと)することになります。

今回、黒木地域に関係するのは、祁答院地区の吉岡重保で祁答院渋谷氏の初代となります。

黒木という地名は、室町時代から登場し薩摩国祁答院のうちであったということですので、祁答院の歴史がそのまま、黒木地区にも関係していきます。

室町時代の黒木
室町時代の黒木

黒木秋葉神社(あっかさあ)の天狗像【鹿児島県薩摩川内市】

黒木地区が、文書「渋谷重茂避状」として登場しだしたのは、1400年(応永7年)です。

文書が書かれた背景は、黒木地区を含む土地を統治していた渋谷一族(上記の東郷氏・祁答院氏・入来院氏・高城氏・鶴田氏)が、守護として従っていた島津家の内紛(総州家と奥州家)の戦いによります。

その文書は、入来院渋谷氏の居城である清敷殿(清色城)へ宛てたもので、祁答院重茂(第7代)が同族の入来院重頼に、中津川村と黒木村を避渡(所領していた土地を譲り渡す)すると書かれたものでした。

渋谷一族の弱体化と、島津氏の台頭

黒木地区周辺(祁答院)の支配者であった渋谷氏ですが、鎌倉時代から室町時代にかけて、一気に勢力が弱まっていきます。

その原因は、島津氏の台頭にあります。

島津氏は、1185年(鎌倉時代文治元年)に将軍である源頼朝から、日本最大の荘園である島津荘の下司職(荘園の荘務をつかさどる地位)として、任命されます。

その後、薩摩国・大隅国(現・鹿児島県)日向国(現・宮崎県)の守護職(地方統治のため幕府から任命された官僚職)として任命されたことで、黒木地区のあった薩摩国にも勢力が及んできます。

鶴田合戦

1329年(室町時代明徳2年)南北朝統一後、薩摩国に入った島津氏は総州家と奥州家に分かれて、内紛が激化します。

この内紛に、さきの黒木地区の領主である渋谷一族が巻き込まれ、1401年(室町時代応永8年)、渋谷四族の祁答院氏・東郷氏・入来院氏・高城氏は島津伊久(総州家)と、鶴田氏は島津師久(奥州家)に分かれて決戦となります。

最終的に、この戦いで鶴田渋谷氏が敗れ、菱刈(現・伊佐市)に逃げたことで、鶴田渋谷氏は没落します。

島津忠廉が大村城を攻撃

1485年(室町時代文明17年)黒木地区の近辺である「大村城」に居城していた大村重知(祁答院家)を、島津分家(豊州家)の島津忠廉(しまづただかど)が、攻撃したとあります。

この時の戦乱を、「帖佐島津氏の軍によって、黒木村と中津川村が放火された」と記されていますが、大村氏は守り切ったようです。

祁答院渋谷氏、没落

1566年(室町時代後期・永禄9年)、虎居城を本城としていた祁答院良重が夫人に暗殺され、領地経営が不可能になると、いったん「祁答院」の土地は同じ渋谷一族の入来院重嗣(入来院第13代当主)に譲渡されますが、

1569年(室町時代後期・永禄12年)には、入来院重嗣氏と同じ渋谷一族の東郷重尚氏(東郷氏第16代)の2族とも、島津氏に降伏し、以後は島津家臣として使えることになります。

余談ですが、入来院重聡(入来院第11代当主)の娘「雪窓」は、島津貴久(第15代)の嫁となり、その後の武将、島津義久・島津義弘・島津歳久の母となったことで有名です。

戦国時代の黒木
戦国時代の黒木

黒木浦地区の田の神【鹿児島県薩摩川内市】

渋谷一族が帰順(服従)したことで、祁答院地方が平定され、島津貴久の三男である島津歳久(しまづとしひさ)が、祁答院を任されることになります。

この時の、祁答院は先にも述べた通り、現・さつま町(虎居・時吉・湯田・船木・平川・久富木・佐志・鶴田・柏原・紫尾・中津川・求名)の地域であり、歳久はここを治めましたが、のちの祁答院町となる大村・藺牟田・黒木地区は、島津家の直轄地でした。

北郷時久の支配下

1592年(安土桃山時代・文禄元年)、島津歳久は天下統一をした豊臣秀吉の逆鱗にふれ、は竜ヶ水(現・鹿児島市吉野町)で自害し、領地が没収され、都城(現・宮崎県)を支配していた北郷時久(ほんごうときひさ)が、祁答院に移封(大名が他の領地に移動すること)してきました。

北郷家は、島津家に所縁があり、父である島津忠親(しまづただちか)が島津豊州家を継いだため、長男である時久が、北郷家の家督を相続した経緯があります。

豊臣秀吉によって、祁答院に移動させられた時に先の祁答院12か村にくわえ、その後の祁答院町となる黒木・大村・藺牟田を含む30か村の領地が、北郷時久に与えられました。

この際、北郷氏は生まれ育った「都城」をおもって、祁答院の中心部を「宮之城」と名付けたとされています。

再び島津家領に

1599年(安土桃山時代・慶長4年)に、北郷氏が都城に戻ることになり、宮之城地頭には、東郷領主だった島津忠長(しまづただなが)がつくことになり、黒木・藺牟田もあらためて、宮之城島津家領となります。

江戸時代の黒木
江戸時代の黒木

豊州島津家代々のお墓が並ぶ黒木地区の愛宕神社石塔群【鹿児島県薩摩川内市】

日置を与えられていた島津常久(しまづつねひさ)=自害した歳久の孫は、1601年~1604年(慶長6~9年)に藺牟田と黒木を領地として与えられています。

1614年(江戸時代慶長19年)、島津常久(享年28歳)が急死すると、長男の島津久慶(しまづひさよし)があとを継ぐのですが、大村へと転封(領地を他に移されること)されたため、再び、黒木地区は宮之城島津家の領地となりました。

豊州島津家のおひざもと

豊州島津家の豊州(ほうしゅう)とは、祖である島津季久(しまづすえひさ)が、豊後国(現・大分県)の豊後守(大分県の知事に相当する)をしていたことから、そう呼ばれるようになりました。

1634年(江戸時代寛永11年)豊州島津家第7代目当主である島津久賀(しまづひさか)が、帖佐から黒木に移り、黒木は豊州島津家の私領地になりました。

この頃から、黒木地区は豊州島津家のおひさもととして、独自の武家社会を形成していきます。

黒木に住んでいた豊州島津家は、島津宗家(本家)の家老としてつかえ、特別に一村で黒木郷という外城が認められていました。

豊州島津久宝(久寶)

1834年(江戸後期 天保5年)に、豊州島津家第15代当主である「島津久宝(久寶)」は、宗家である島津斉彬に仕え、家老を務めていました。

しかし、島津斉彬(なりあきら)が家督(島津氏第28代当主)を継ぐのは、40歳のときで、「お由羅騒動」と呼ばれる後継ぎ問題がありました。

お由羅騒動

「お由羅騒動」とは、島津斉興(島津氏第27代当主)の後継ぎ問題のことを指します。

この後継ぎ問題は、島津斉興の後継者として側室の子・島津久光側と、嫡子・島津斉彬側とにわかれて対立がおき、俗に「お由羅騒動」と呼ばれ、お由羅とは、島津斉興(しまづなりおき)の側室の名前で、島津久光の母親です。

1851年(江戸末期 嘉永4年)に、将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)によって、島津斉興に対し隠居するように促されると、島津斉彬に家督が継がれて、話は収束します。

豊州島津家の失脚

1858年(江戸後期 安政5年)に斉彬、1859年(江戸後期 安政6年)、その父親である島津斉興(しまづなりおき)が続けて亡くなると、島津忠義(しまづただよし・島津第29代当主)の実父である島津久光が実権を握ったため、久宝(久寶)は罷免(職をやめさせられること)され、豊州家が失脚していったといわれています。

近代の黒木地域の位置づけ

近代の黒木地域の位置づけ

黒木村役場跡【鹿児島県薩摩川内市】

1889年(明治22年)町村制の施行により、黒木郷は、黒木村として単独自治体となりました。

1955年(昭和30年)黒木村は、大村・藺牟田村と合併し、祁答院町の大字になりました。

2004年(平成16年)祁答院町は、川内市、東郷町、入来町、樋脇町、里村、上甑村、下甑村、鹿島村と申請津合併し、薩摩川内市となり、大字が祁答院町黒木となりました。

黒木地区の伝統文化

黒木地区の伝統文化として、「鷹踊り」があります。

しかし、江戸時代から続いているお隣の中津川地区の伝統文化「金吾様踊り」とは違い、歴史はそれほど古くありません。

その所以は、黒木地区が武士が多い地区であり、中津川は農民が大多数をしめた地区であったからです。

黒木地区に根差す、「鷹踊り」も上層の武士がおこなっていた鷹狩りを芸能化したもので、動物たちの霊を慰めるための踊りともいわれています。

しかし、今となっては30年以上の歴史をもつ「鷹踊り」は、黒木地区の伝統芸能として確立され、保存会が立ち上がり、継承を続けています。

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