藺牟田(いむた)は、ラムサール条約に登録されている「藺牟田池」を中心に広がる、薩摩川内市祁答院町の地区です。
藺牟田地区は、鹿児島県薩摩川内市の東にあって、北側は祁答院町大村地区、東側を蒲生町西浦(姶良市)、南側を入来町浦之名、西側は入来温泉がある副田、山崎の久富木(さつま町)につながっています。
街の中心には、藺牟田小学校・藺牟田コミュニティセンター・本龍寺があります。
このページの内容
藺牟田(いむた)の地図
鹿児島県の鹿児島県薩摩川内市にある「藺牟田(いむた)」地区には、
と呼ばれる、名前の自治会・公民館があります。
藺牟田地区の動画
藺牟田(いむた)の名前の由来
藺牟田(いむた)という名前は、藺牟田地区の西部に位置する「藺牟田池」からきています。
その「藺牟田池」が古来から、藺草(イグサ)が繁茂していた牟田=ムタ(草が茂っている沼)状になっていた土地であったことが、その名前の由来です。
藺牟田(いむた)の変遷
藺牟田(いむた)地区の集落
藺牟田地区 | 萩之段 城平上 城平下 城平中 永田前 永田後 新屋敷 薩摩田 中原 桟敷段 原後 枦場 崎山 松之川内 大坪上 千貫 澁谷 牟田 砂石上 砂石中 砂石下 湯之元上 湯之元下 中央 平田 平城前 |
藺牟田(いむた)の飲食店・青果店・菓子屋・パン屋・お弁当屋・スーパーマーケット・道の駅・産地直売所
旬菜すし 魚昌 | 和食店 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2287−1 |
祁答院蒸留所 | 焼酎醸造所 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2728−1 |
ゆうな | レストラン | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2290−1 |
うめんこ | 特産物販売 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市 祁答院町藺牟田8514 |
祁答院特産品加工センター | 食品製造業者 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田924−1 |
山口観光農園 | 農場 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田73 |
松田農場 | 果樹園 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田1137 |
藺牟田(いむた)の温泉・銭湯・大衆浴場・宿泊施設
いむた温泉 下ノ湯 | 銭湯 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市 祁答院町藺牟田2652−2 |
藺牟田温泉 農村公園 足湯 | 足湯 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2638−1 |
ホテル ホワイトハウス | ホテル | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田5213−1 |
藺牟田(いむた)の神社・仏閣・史跡・名所
藺牟田池県立自然公園 | 自然保護公園 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
泥炭形成植物群落 | 自然保護公園 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
藺牟田池の落羽松 | 観光名所 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
生態系保存資料館・アクアイム | 自然史博物館 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田1999−2 |
世界一郷水車 | 観光名所 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
本龍寺 | 仏教寺院 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田294 |
大翁寺跡(藺牟田樺山氏墓所) | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田9072 |
樺山家仮屋跡 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田108 |
日枝神社 | 神社 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田292 |
熊野神社 | 神社 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
薩摩田の田の神 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
大坪の田の神 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
屋所石塔群 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
竜仙館 | 観光名所 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田950 |
法連寺跡 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
湯之元下の田の神 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
麓東の田の神 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
藺牟田の田の神 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
藺牟田麓西の石敢當 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
山王岳環状列石 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田1971 |
竜石 | 観光名所 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
砂防ダム | 観光名所 | 〒〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
華厳寺跡 | 史跡 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
藺牟田(いむた)の公共施設・教育・医療・スポーツ
藺牟田小学校 | 小学校 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田108 |
藺牟田地区コミュニティセンター | コミュニティーセンター | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田296−1 |
なかよしこども園 | 保育園 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田295−1 |
藺牟田郵便局 | 郵便局 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田6816−5 |
砂石簡易郵便局 | 郵便局 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2623−12 |
いむた薬局 | 調剤薬局 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2108−2 |
のぞみ園 | 介護施設 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2153−1 |
あゆみの家 | デイケアサービス | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田2103−6 |
ほてる咲良 | デイケアサービス | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田1805−5 |
藺牟田(いむた)の生活サービス
チェリー美容室 | 美容院 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田95−1 |
野はら屋 | 陶芸教室 | 〒895-1502 鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田 |
藺牟田(いむた)の歴史
鹿児島県薩摩川内市の藺牟田地区は、泥炭形成植物群落の名で天然記念物に指定されている「藺牟田池」を有している町として、有名です。
この藺牟田地区が、日本の歴史でどのような役割をになってきたのか、さかのぼってみましょう。
古代・中世の藺牟田地域の位置づけ
藺牟田地区は、大きく分けて現在のさつま町一帯となる「祁答院(けどういん)」と呼ばれる地域の中に組み込まれていました。
しかし、古代の祁答院という地域は現・薩摩川内市の祁答院町(黒木・大村・藺牟田)を表すものではなく、もっと広い意味での、宮之城・山崎・鶴田・佐志・永野をくわえた、現在のさつま町全域とさきの薩摩川内市の一部を足した地域と考えられています。
藺牟田地区には、大坪字城山の場所に「藺牟田城(いむたじょう)」というお城があります。
この藺牟田城の支配者(城主)が、そのまま藺牟田地区の歴史と深いかかわりがありますので、その支配者の歴史を古代からみていくことにしましょう。
古代から近世にかけて藺牟田の支配者の変遷
平安時代の藺牟田
まだ藺牟田という表記が文書に登場しない1131年(平安時代大治六年)ごろ、大前道助(おおくまみちすけ)と呼ばれる支配者が、祁答院地方にいました。大前は「おおさき」とも読まれます。
大前氏は、平安時代まで権力があった朝廷から任ぜられた郡司(地方諸国の役人)でした。以後、源頼朝が関東武士団の棟梁となって平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いたころには、豪族たちを諸国に「地頭」として配置したため郡司は弱体化していきます。
鎌倉時代の藺牟田
1248年(鎌倉時代宝治2年)、関東に住む渋谷光重(しぶやみつしげ)が宝治合戦と呼ばれる鎌倉幕府の内乱において、戦争の恩賞として千葉氏が持っていた薩摩国の高城郡・東郷別府・入来院・祁答院の土地を、ときの幕府執権であった北条氏より下賜=かし(高貴の人が、身分の低い人に物を与えること)されます。
渋谷光重は、長男である渋谷重直(しぶやしげなお)に相模国の渋谷荘を与えたあと、残りの息子には薩摩国の東郷別府(次男・早川実重)、祁答院(三男・吉岡重保)、鶴田(四男・大谷重茂=重諸とも呼ばれる)、入来院(五男・曽司定心)、高城(六男・落合重定)をそれぞれ与え、兄弟たちは関東から、はるばる遠い九州へ下向(都から田舎にくること)することになります。
室町時代の藺牟田
平安時代末期には、郡司である大前氏が支配していた「藺牟田城」ですが、1400年(室町時代・応永7年)ごろには、渋谷祁答院氏の支配にかわり、
その祁答院渋谷氏の一族である河内守延重あるいは、重基が藺牟田を領土として、藺牟田氏を名乗ることになりました。
藺牟田地区には、藺牟田氏初代重基が開基(仏寺を創立すること)したことで知られる「不蓮寺跡」があり、藺牟田氏の菩提寺として知られています。
藺牟田重基は、別名、河内守重基とも呼ばれており「不蓮寺跡」は河内神社として、今も神体として祀られています。
藺牟田地区周辺(祁答院)の支配者であった渋谷氏ですが、鎌倉時代から室町時代にかけて、一気に勢力が弱まっていきます。
その原因は、島津氏の台頭にあります。
渋谷一族の弱体化と、島津氏の台頭
島津氏は、1185年(鎌倉時代文治元年)に将軍である源頼朝から、日本最大の荘園である島津荘の下司職(荘園の荘務をつかさどる地位)として、任命されます。
その後、薩摩国・大隅国(現・鹿児島県)日向国(現・宮崎県)の守護職(地方統治のため幕府から任命された官僚職)として任命されたことで、藺牟田地区のあった薩摩国祁答院にも勢力が及んできます。
南北朝時代に入ると守護島津貞久(しまづさだひさ)は、1336年(室町時代建武3年)に足利尊氏側(北朝)に属し、九州内の南朝方の敵と攻防をくりかえしていきます。
鶴田合戦
1401年(室町時代応永8年)には、渋谷四族の祁答院氏・東郷氏・入来院氏・高城氏は島津伊久(総州家)と、鶴田氏は島津師久(奥州家)に分かれて決戦となります。
最終的に、この戦いで鶴田渋谷氏が敗れ、菱刈(現・伊佐市)に逃げたことで、鶴田渋谷氏は没落します。
1452年(室町時代享徳元年)、文書で島津氏によって、祁答院地域の検田=けんでん(農耕地の面積・耕作者・土質の調査)をおこなった際、藺牟田・長野(現・永野)まで検田されたと残っています。
文明の大合戦
1485年(室町時代・文明17年)、藺牟田重宜(しげのぶ)が居城し、その子、藺牟田重持(しげもち)が領主のとき、島津家第11代当主である忠昌(ただまさ)の重臣、忠廉(ただかど)を総大将とする島津軍勢が、藺牟田城を攻撃しました。
藺牟田氏側は、将兵50人あまりが命を落とし、重持もいったん家臣とともに逃げ延びますが、島津軍が引き上げたあと再び、藺牟田城に居城します。
祁答院渋谷氏の失脚と没落
1532年~1555年(室町時代天文年間)、勢力の弱まっていた祁答院良重(祁答院氏第13代当主)は、菱刈氏・蒲生氏と組んで島津貴久=しまづたかひさ(島津氏第15代当主)に反旗をひるがえし、
1554年(室町時代天文23年)になると、菱刈・蒲生の連合軍が島津軍がいる加治木城を攻めます。
島津貴久は、加治木城を救うために息子の島津義久・義弘・歳久に祁答院良重(けどういんよししげ)が住んでいた「岩剣城」攻撃を命じます。
祁答院氏を救援にきた蒲生軍が、島津側に撃退されると祁答院良重は、孤立無援となったため「祁答院」に逃亡し、岩剣城は落城しました。
1566年(室町時代後期・永禄9年)、虎居城を本城としていた祁答院良重が夫人に暗殺され、領地経営が不可能になると、いったん「祁答院」の土地は同じ渋谷一族の入来院重嗣(入来院第13代当主)に譲渡されますが、
1569年(室町時代後期・永禄12年)には、入来院重嗣氏と同じ渋谷一族の東郷重尚氏(東郷氏第16代)の2族とも、島津氏に降伏し、以後は島津家臣として使えることになります。
藺牟田氏断絶と藺牟田城廃城
別名「弦掛城(つるかけじょう)」ともいわれた藺牟田城ですが、渋谷祁答院氏の正統が断絶してしまうと、藺牟田氏も衰え、最終的には断絶、藺牟田城も廃城となりました。
その後、藺牟田地区は公領(朝廷・幕府が治めている土地)となります。
戦国時代の藺牟田
渋谷一族が帰順(服従)したことで、祁答院地方が平定され、島津貴久の三男である島津歳久(しまづとしひさ)が、祁答院を任されることになります。
この時の、祁答院は現・さつま町(虎居・時吉・湯田・船木・平川・久富木・佐志・鶴田・柏原・紫尾・中津川・求名)の地域であり、歳久はここを治めました。
北郷時久の支配下
1592年(安土桃山時代・文禄元年)、島津歳久は天下統一をした豊臣秀吉の逆鱗(怒り)にふれ、は竜ヶ水(現・鹿児島市吉野町)で自害し、領地が没収され、都城(現・宮崎県)を支配していた北郷時久(ほんごうときひさ)が、祁答院に移封(大名が他の領地に移動すること)してきました。
北郷家は、島津家に所縁があり、父である島津忠親(しまづただちか)が島津豊州家を継いだため、長男である時久が、北郷家の家督を相続した経緯があります。
豊臣秀吉によって、祁答院に移動させられた時に先の祁答院12か村にくわえ、その後の祁答院町となる黒木・大村・藺牟田を含む30か村の領地が、北郷時久に与えられました。
この際、北郷氏は生まれ育った「都城」をおもって、祁答院の中心部を「宮之城」と名付けたとされています。
再び島津家領に
1599年(安土桃山時代・慶長4年)に、北郷氏が都城に戻ることになり、宮之城地頭には、東郷領主だった島津忠長(しまづただなが)がつくことになり、あらためて、祁答院は宮之城島津家領となります。
江戸時代の藺牟田
江戸時代に入ると、薩摩国島津氏庶流の士族の「樺山氏(かばやまし)」が、藺牟田地区を治めます。
樺山氏の祖(はじまり)は、薩摩国守護島津忠宗=ただむね(第4代当主)の五男である樺山資久で、宮崎県北諸県郡三股町の地名「樺山」から取り、名字を島津から改名したといわれています。
近思録崩れ
1808年(江戸後期・文化5年)藺牟田に私領がある樺山久言=かばやまひさこと(官名=樺山主税)は、親族に対する嫌がらせをたびたび受けたため、自害に追い込まれました。
この悲しい事件「近思録崩れ」の顛末=てんまつ(ものごとの初めから終わりまでの事情)は、以下になります。
まず、この事件の中心人物は島津重豪=しまづしげひで(第25代当主)です。
鹿児島藩は、江戸初期から慢性的な赤字(お金がない)状態であったのに対して、重豪(しげひで)は、他藩に比べて自藩が文化的に遅れていることに懸念を抱き、※開花政策をとり、財政は破局に向かっていました。
※開花政策=天文観測所・明時館・佐多薬園など蘭学(オランダ語によって西洋の学術・文化を研究した学問)に関係する施設建設、藩校・造士館の建立、他の地域からの商人の招聘(客として招くこと)
その息子である、島津斉宣=しまづなりのぶ(第26代当主)は、※近思録(きんしろく)を愛読し、それを実践する家臣を起用し、徹底的な緊縮政策(財政難を理由として公的支出が抑制されること)を実施しました。
※近思録=4人の北宋時代の学者が執筆した朱子学の入門書
つまり、父親である島津重豪の上記の新規政策をことごとく破脚=はきゃく(壊してなくすこと)していったのです。
最終的には、父親の重豪(しげひで)の逆鱗にふれ、近思録を実践していた家老の樺山久言・秩父季保(ちちぶすえやす)を筆頭に、77名が※処分されました。
※処分内容=切腹13名、遠島25名、剃髪42名、逼塞23名、謹慎12名
重豪(しげひで)の圧力で死後はお墓が作られなかった久言(ひさこと)ですが、領民が隠れて地蔵を建立し供養したといわれています。その場所が藺牟田地区の大翁寺跡です。
藺牟田郷の形成
藺牟田地区は、上記のような悲しい事件はあったものの、樺山氏に仕え軍功があった七崎(長崎・早崎・神崎・大崎・山崎・藤崎・竹崎)の家もあり、樺山家も元鹿児島市長の樺山可也(かばやまかなり)をはじめ、最近の当主も旧祁答院町の助役であったりと、偉人を多く輩出しています。
また、江戸時代を通して藺牟田地区は、樺山氏の私領として統治され、薩摩藩の外城制度において単独の藺牟田郷を構成しました。
領主仮屋があった場所が、現在の藺牟田小学校の場所です。
明治以降の藺牟田村
上記のように、武家屋敷として6人に1人が士族(武士)であった藺牟田地区は、
明治初年時点で、薩摩鹿児島藩領の藺牟田郷 – 藺牟田村を形成していました。
藺牟田村
1889年(明治22年)に町村制が施行されると、単独で「藺牟田村」が発足し、村内全域で大字藺牟田が使われました。
祁答院町藺牟田
1955年(昭和30年)鹿児島県知事から、地方自治法第8条2項「当該普通地方公共団体の中心の市街地を形成している区域内に在る戸数が、全戸数の六割以上であること。」に基づき、
早急に、合併のための協議会を結成するように勧告をうけ、同年4月1日、黒木村・大村・藺牟田村を新設合併し、祁答院町とし、大字を含め藺牟田地区は「祁答院藺牟田」となりました。
薩摩川内市祁答院町藺牟田
2004年(平成16年)には、祁答院町が、川内市・東郷町・入来町・樋脇町・里村・上甑村・下甑村・鹿島村と、再び新設合併し、薩摩川内市となりました。
よって、薩摩川内市の大字「祁答院町藺牟田」として、今に至ります。
藺牟田地区の伝統文化
藺牟田地区の伝統文化として、日枝神社に奉納されていた「藺牟田神舞」があります。
古代の隼人族が踊った隼人舞が源流とされ、民俗学的にも貴重な「藺牟田神舞」は、約30人が古式豊かに踊る全35の舞があり、通常22ほどに限定して披露されます。
1937年(昭和12年)にいったん途絶えていた伝統行事でしたが、保存会が結成され1976年(昭和51年)に39年ぶりに復活しました。
このほかにも、藺牟田地区には原自治会の「三尺棒踊り」、麓西・東・中原・新屋敷自治会の「田の神講(田の神戻し)」の伝統行事があります。