大村(おおむら)は、祁答院町の上手・下手を含めた、薩摩川内市祁答院町の地区です。下手地区はもともと、別名「大村」と呼ばれており、コミュニティセンター名も下手を使わず大村、上手地区はそのまま上手の地区名を使っています。
大村の上手(かみで)地区は、薩摩川内市の東にあって、東部は祁答院黒木(薩摩川内市)、蒲生町漆(姶良市)、南部は蒲生町西浦(姶良市)、西部は祁答院大村、西部から北部にかえては同じ大村の下手地区に隣接しています。
大村の下手(しもで)地区は、同じく薩摩川内市の東にあって、北部は田原(さつま町)、東部にかけては下手地区、黒木地区(薩摩川内市)、南部は大村地区(薩摩川内市)、西は久富木・宮之城(さつま町)に面しています。
大村の町の中心は、下手地区の祁答院小学校(旧大軣小学校)と薩摩川内市祁答院支所(旧祁答院町役場)周辺です。
このページの内容
大村地区(下手)の動画
大村下手の地図
鹿児島県薩摩川内市にある大村「下手(しもで)」地区には、
と呼ばれる、名前の自治会・公民館があります。
大村上手の地図
鹿児島県薩摩川内市にある大村「上手(かみで)」地区には、
と呼ばれる、名前の自治会・公民館があります。
大村(おおむら)の変遷
大村(おおむら)地区の集落
大村地区 | 上村 下村 轟木 市之瀬 仕明 枯木野 岩下 谷丸 大村町 藍屋 鏑流 井手田 桟敷段 宇ケ石 友ノ口 川東 上手町 楠原 中福良 早馬 秋上 上門 浦下 滝聞西 滝聞東 中武 |
大村(おおむら)の飲食店・青果店・菓子屋・パン屋・お弁当屋・スーパーマーケット・道の駅・産地直売所
牧瀬パン | ベーカリー | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手1070 |
クアトロ | デザートショップ | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2875−1 |
たかえ食堂 | 定食屋 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手66 |
お食事・喫茶 一休 | 軽食店 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手977 |
Aコープ | スーパーマーケット | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2794 |
Yショップ ありかわ | コンビニエンスストア | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2879 |
祁答院ロード51 | 産地直売所 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手3754−1 |
時吉ストア | スーパーマーケット | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2400 |
徳留春枝商店 | スーパーマーケット | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手4847 |
華さつま農園 | ほおずき生産 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手 |
大村(おおむら)の温泉・銭湯・大衆浴場・宿泊施設
大村温泉公衆浴場 | 温泉 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手93−2 |
ホテル 祁答院 | ホテル | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手3611 |
大村(おおむら)の神社・仏閣・史跡・名所
白光山永福寺 | 仏教寺院 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2399 |
八幡神社 | 神社 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手385 |
大村郷の地頭仮屋敷 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手974 |
大応寺跡 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
旧祁答院町立 轟小学校跡 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
菊池田の田の神(西) | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
菊池田の田の神(東) | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
宇都六地蔵塔 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手5335 |
上仕明の田の神 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
大村岩下の田の神 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
馬頃尾の田の神 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
大村松坂の田の神 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
大村陣内の田の神 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手385 |
下手川東の田の神 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手259 |
岩屋観音磨崖仏 | 史跡 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手 |
上手の田の神 | 史跡 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手554 |
中福良の田の神 | 史跡 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手 |
浦下の田の神 | 史跡 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手1766 |
西南戦争供養塔 | 史跡 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手4310 |
上門の田の神 | 史跡 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手4765 |
楠原の田の神 | 史跡 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手2875−1 |
大村(おおむら)の公共施設・教育・医療・スポーツ
祁答院小学校 | 小学校 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手974 |
祁答院中学校 | 中学校 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手190−1 |
大村保育園 | 保育園 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手3001−2 |
大村報徳学園 | 社会事業団 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手4481 |
大軣小学校 | 閉校 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手974 |
上手小学校 | 閉校 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手 |
薩摩川内市立図書館 祁答院分館 | 図書館 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手974 |
祁答院郵便局 | 郵便局 | 〒895-1599 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2869−2 |
上手簡易郵便局 | 郵便局 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手582−2 |
わかばクリニック | 内科医 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手977 |
祁答院薬局 | 調剤薬局 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手977 |
薩摩川内市 祁答院支所 | 市役所 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手67 |
祁答院体育館 | スポーツ施設 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手34 |
薩摩川内市商工会 祁答院支所 | 商工会議所 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手10−4 |
薩摩川内市消防局 東部消防署 祁答院分署 | 消防署 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手43−1 |
特別養護老人ホーム おおむら園 | 老人ホーム | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手500−7 |
特別養護老人ホーム つきみ園 | 老人ホーム | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手500−8 |
祁答院ゴルフ倶楽部 | ゴルフ場 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手3600 |
大村のみんなの広場 | 公園 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 |
大村(おおむら)の生活サービス
肩甲骨はがし 薩摩川内 肩こり・腰痛 癒しの空間 | 指圧・マッサージ | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2742−1−1−1 |
フジカラーショップ祁答院 | 写真館 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2821−3 |
国生電気店 | 電器店 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2883 |
WEL若杉学習塾 | 学校 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2889−2 |
いづみ窯 | 陶器専門店 | 〒895-1503 鹿児島県薩摩川内市祁答院町上手1783 |
伊牟田呉服店 | 衣料品店 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2889 |
ひだまり美容室 | 美容院 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2896 |
祁答院タクシー | タクシー会社 | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手1076−1 |
有川商店 大村SS | ガソリンスタンド | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手2821−1 |
北さつま農協大村スタンド | ガソリンスタンド | 〒895-1501 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手15 |
大村(おおむら)の歴史
鹿児島県薩摩川内市の大村地区は、大村温泉公衆浴場で有名な、大きく上手地区と下手地区にわかれている町です。
この大村地区が、日本の歴史でどのような役割をになってきたのか、さかのぼってみましょう。
古代・中世の大村地域の位置づけ
大村地区は、大きく分けて現在のさつま町一帯となる「祁答院(けどういん)」と呼ばれる地域の中に組み込まれていました。
しかし、古代の祁答院という地域は現・薩摩川内市の祁答院町(黒木・大村・大村)を表すものではなく、もっと広い意味での、宮之城・山崎・鶴田・佐志・永野をくわえた、現在のさつま町全域とさきの薩摩川内市の一部を足した地域と考えられています。
大村地区には、祁答院小学校(元大軣小学校)の裏山標高121mのところに「大村城(おおむらじょう)」というお城がありました。
この大村城の支配者(城主)が、そのまま大村地区の歴史と深いかかわりがありますので、その支配者の歴史を古代からみていくことにしましょう。
古代から近世にかけて大村の支配者の変遷
平安時代の大村
まだ大村という表記が文書に登場しない1131年(平安時代大治六年)ごろ、大前道助(おおくまみちすけ)と呼ばれる支配者が、祁答院地方にいました。大前は「おおさき」とも読まれます。
大村城は、この大前氏によって、1142年(平安時代末期・康治元年)以前に築城されたといわれています。
大前氏は、平安時代まで権力があった朝廷から任ぜられた郡司(地方諸国の役人)でした。以後、源頼朝が関東武士団の棟梁となって平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いたころには、豪族たちを諸国に「地頭」として配置したため郡司は弱体化していきます。
1190年(平安時代末期・建久元年)に、大倉丸名(現・祁答院下手の馬頃尾付近・桑丸)の領主だった前氏一族(大前師道の息子)の滝聞太郎道房が、滝聞城(祁答院上手地区)から大村城に移ってきたといわれています。
その後、滝聞太郎道房の子孫は「大村氏」を名乗り居城しました。
鎌倉時代の大村
1248年(鎌倉時代宝治2年)、関東に住む渋谷光重(しぶやみつしげ)が宝治合戦と呼ばれる鎌倉幕府の内乱において、戦争の恩賞として千葉氏が持っていた薩摩国の高城郡・東郷別府・入来院・祁答院の土地を、ときの幕府執権であった北条氏より下賜=かし(高貴の人が、身分の低い人に物を与えること)されます。
渋谷光重は、長男である渋谷重直(しぶやしげなお)に相模国の渋谷荘を与えたあと、残りの息子には薩摩国の東郷別府(次男・早川実重)、祁答院(三男・吉岡重保)、鶴田(四男・大谷重茂=重諸とも呼ばれる)、入来院(五男・曽司定心)、高城(六男・落合重定)をそれぞれ与え、兄弟たちは関東から、はるばる遠い九州へ下向(都から田舎にくること)することになります。
室町時代の大村
大村地区周辺(祁答院)の支配者であった渋谷氏ですが、鎌倉時代から室町時代にかけて、一気に勢力が弱まっていきます。
その原因は、島津氏の台頭にあります。
渋谷一族の弱体化と、島津氏の台頭
島津氏は、1185年(鎌倉時代文治元年)に将軍である源頼朝から、日本最大の荘園である島津荘の下司職(荘園の荘務をつかさどる地位)として、任命されます。
その後、薩摩国・大隅国(現・鹿児島県)日向国(現・宮崎県)の守護職(地方統治のため幕府から任命された官僚職)として任命されたことで、大村地区のあった薩摩国祁答院にも勢力が及んできます。
南北朝時代に入ると守護島津貞久(しまづさだひさ)は、1336年(室町時代建武3年)に足利尊氏側(北朝)に属し、九州内の南朝方の敵と攻防をくりかえしていきます。
渋谷一族が大村城を攻撃
1342~1344年(室町時代・康永年間)ごろ、渋谷祁答院の一族である、吉岡将重(祁答院渋谷氏の初代である吉岡重保の孫=重尚の実子)が、大村氏がいる大村城を攻撃し滝聞城に退去したため、その後、将重が大村城に居城しました。
吉岡将重も、1357年(室町時代・延文2年)には、島津氏に敗れてしまい、大村城をあとにしました。
その後、本田(本多)親宗が居城したとも伝えられています。
文書で大村の地名が登場
1368年(室町時代・応安元年)熊野本宮大社の文書である「薩摩・肥前両国檀那願文」のなかで、「けどういんおおむら」の名が初めて登場します。
1380年(室町時代・康暦2年)ごろには、ふたたび祁答院氏が大村城を勝ち取り、祁答院重茂(しげもち)の次男である重義(しげよし)が、大村の領主となりあらためて「大村氏」を名乗りました。
鶴田合戦
1401年(室町時代・応永8年)には、渋谷四族の祁答院氏・東郷氏・入来院氏・高城氏は島津伊久(総州家)と、鶴田氏は島津師久(奥州家)に分かれて決戦となります。
最終的に、この戦いで鶴田渋谷氏が敗れ、鶴田氏は菱刈(現・伊佐市)に逃げたことで、鶴田渋谷氏は没落します。
この戦いで、祁答院重義(しげよし)の子である重続も戦死し、その後祁答院久重(ひさしげ)の次男、諸重(もろしげ)が大村の領主となり、みずから大村氏を名乗りました。
伊集院頼久が大村城領主に
祁答院諸重のあとには、奥州家の島津元久=もとひさ(島津氏第6代当主)のいとこの「伊集院頼久」が渋谷一族との攻防で、隣町の入来院の清色城(きよしきじょう)と、この大村城を島津元久軍として勝ち取って居城していたようです。
1411年(室町時代・応永18年)渋谷重頼(入来院重頼)が、再び祁答院を取り返そうと進軍、14年ぶりに清色城が渋谷一族に戻りました。
島津元久が亡くなり、その跡を継いだ久豊=ひさとよ(島津氏第8代当主)が、島津久世=ひさよ(総州家第4代当主)と和解したことで、伊集院頼久は、入来と大村を去り(応永紀より)、その後鹿児島各地で渋谷一族と戦いをくりひろげます。
1452年(室町時代・享徳元年)島津氏による検田=けんでん(農耕地の面積や耕作者・土質を調査すること)が、宮之城の時吉(現・さつま町)から、黒木・大村まで終えたと記載(平徳重覚書より)がありますので、この時期は、すでに島津家が大村を管理していたようです。
祁答院渋谷氏の失脚と没落
1566年(室町時代後期・永禄9年)、虎居城を本城としていた祁答院良重が夫人に暗殺され、領地経営が不可能になると、いったん「祁答院」の土地は同じ渋谷一族の入来院重嗣(入来院第13代当主)に譲渡されますが、
1569年(室町時代後期・永禄12年)には、入来院重嗣氏と同じ渋谷一族の東郷重尚氏(東郷氏第16代)の2族とも、島津氏に降伏し、以後は島津家臣として使えることになります。
戦国時代の大村
渋谷一族が帰順(服従)したことで、祁答院地方が平定され、島津貴久の三男である島津歳久(しまづとしひさ)が、祁答院を任されることになります。
この時の、祁答院は現・さつま町(虎居・時吉・湯田・船木・平川・久富木・佐志・鶴田・柏原・紫尾・中津川・求名)の地域であり、歳久はここを治めました。
北郷時久の支配下
1592年(安土桃山時代・文禄元年)、島津歳久は天下統一をした豊臣秀吉の逆鱗(怒り)にふれ、は竜ヶ水(現・鹿児島市吉野町)で自害し、領地が没収され、都城(現・宮崎県)を支配していた北郷時久(ほんごうときひさ)が、祁答院に移封(大名が他の領地に移動すること)してきました。
北郷家は、島津家に所縁があり、父である島津忠親(しまづただちか)が島津豊州家を継いだため、長男である時久が、北郷家の家督を相続した経緯があります。
豊臣秀吉によって、祁答院に移動させられた時に先の祁答院12か村にくわえ、その後の祁答院町となる黒木・藺牟田・大村を含む30か村の領地が、北郷時久に与えられました。
この際、北郷氏は生まれ育った「都城」をおもって、祁答院の中心部を「宮之城(さつま町)」と名付けたとされています。
再び島津家領に
1599年(安土桃山時代・慶長4年)に、北郷氏が都城に戻ることになり、宮之城地頭には、東郷領主だった島津忠長(しまづただなが)がつくことになり、あらためて、祁答院は宮之城島津家領となります。
江戸時代の大村
江戸時代に入ると、薩摩藩(現・鹿児島県)では、外城(とじょう)と呼ばれる地方支配の制度を作りました。
1784年(江戸時代・天明4年)鹿児島城以外に、113の外城(郷)を作って、武士を土着させ外敵から鹿児島を守る外城制度に、大村も例をならい、郷が形成されました。
隣町の黒木・藺牟田郷は一郷一村であったのに対して、大村は下手・上手・南方・北方の4つの村(南方・北方はのちに、さつま町中津川になります)があり、いわゆる「大(大きな)」郷でした。
大村郷の士民(武士)を総管=そうかん(全体を管理する)する郷の最高職として、薩摩藩より任命された「地頭」が地頭仮屋に住んでいました。(現・祁答院小学校の場所)
士族(武士)が住んでいた地区は「麓(ふもと)」とし、大村郷麓は下手の中心地にありました。
村(農村地帯)は、下手・上手・南方・北方で、町(生活の中心)は、麓町(下手村)と野町=町人町に分かれて、野町は麓の西部と、北方村(現・さつま町中津川)に作られました。
隣町の藺牟田・黒木地区が島津藩の私領だった(武士が住んでる割合が、全国平均の約10倍)のに対し、大村は町人も多く、武士と平民の比率が鹿児島城下(市内)と変わりませんでした。
明治以降の大村
藺牟田地区と黒木地区が武士の町として、江戸時代を通して発展したのに対し、大村は早い段階から上手村と下手村と合わせて「大村」として天保郷帳(江戸幕府の命で作られた郷帳)にも記載され、武士も町人もともに暮らしていた町だったのです。
1868年(明治初年)時点で、大村は、薩摩鹿児島藩領の大村郷南方村、北方村(現・さつま町)、上手村、下手村(現・薩摩川内市)でした。
大村
1887年(明治20年)に南伊佐郡が発足。
1889年(明治22年)町村制の施行により、南方村・北方村・上手村・下手村が合わさって大村が発足しました。
中津川が大村から分村
町内施行のタイミングより、大村に含まれていた南方村と北方村は、大村の飛び地であることに不便さを感じており、分村運動がおこりました。
1948年(昭和23年)大村で臨時議会が開かれ分村が可決、北方村と南方村があわさって翌年「中津川村」が発足。大村を抜けました。
祁答院町大村
1955年(昭和30年)鹿児島県知事から、地方自治法第8条2項「当該普通地方公共団体の中心の市街地を形成している区域内に在る戸数が、全戸数の六割以上であること。」に基づき、
早急に、合併のための協議会を結成するように勧告をうけ、同年4月1日、黒木村・藺牟田村・大村が新設合併し、祁答院町とし、大字を含め大村地区は「祁答院大村」となりました。
薩摩川内市祁答院町大村
2004年(平成16年)には、祁答院町が、川内市・東郷町・入来町・樋脇町・里村・上甑村・下甑村・鹿島村と、再び新設合併し、薩摩川内市となりました。
よって、薩摩川内市の大字「祁答院町大村」として、今に至ります。
大村地区の伝統文化
鹿児島県薩摩川内市の祁答院町大村地区(上手・下手)で引き継がれてきた無形文化財(伝統文化)を紹介します。
南方神社の神舞
隣町のる藺牟田神舞が有名ですが、大村の下手南方神社にも「神舞」がありました。
1938年(昭和13年)ごろまで、神社の例祭と関係なく、国の慶事など大きな記念行事に奉納されていたようです。
1941年(昭和16年)入来町大明神社で演舞したのを最後に、見れなくなっているようです。
神舞の種類は18種類で、主な舞は「山之神舞・火の舞・剣舞・長刀舞・鬼神舞・田之神舞・幣舞」です。
南方神舞に使用されたお面は、12面残っており、松本家で大切に保存されています。
上手の俵踊り
米俵をリレー形式で土俵の外に出したものを、踊りにしたもので大村上手の楠原地区の踊りとして、伝承されています。
踊りの人数に決まりはなく、数人から数十人が一組となり、木綿の着物にもんぺをはき、足袋(たび)を草履履きで、向こうハチマキに白木綿タオルで、黄色い襷(たすき)を着けた姿で踊ります。
踊り子は、長さ50センチあまりの米俵を一俵ずつ用意し、お囃子(おはやし)は赤襷(あかたすき)を付けた三味線と、太鼓です。
太鼓踊り
一種の念仏踊りである「太鼓踊り」は、鉦(かね)と太鼓を打ち鳴らして、からだを激しく跳躍させます。
1465年(室町時代・寛正5年)ごろからはじまった、この太鼓踊りは、下手の菊池田・馬比尾・上手のそれぞれの神社の例祭で踊られています。
太鼓踊りの全体の流れは、戦いかの出陣から戦闘、凱旋にいたるまでの様子を表現しています。
下手城北地区の鷹踊り
鷹踊りは、鷹の餌食(えじき)になった動物たちの霊を慰めるための、供養の踊りといわれています。
種子島踊り
1903年(明治36年)に、大村に伝承したといわれる、鹿児島県の南の島「種子島」の芸能です。
轟地区の菊池田の婦人によって、伝承されています。
バラ踊り
踊り子の姿に変装し、敵方の城に進入する時の様子を踊りに仕組んだものといわれています。
大正時代に踊られており、その後中断。大村小学校創立100周年記念式典をさかいに、再び、下手地区川東に復活しました。
兵児踊り
薩摩男児(隼人)の気風をそのまま、表現した踊りです。
祁答院地区に「兵児踊り」がきたのは、出水兵児(出水市)との交流がなされ、大正時代まで踊られその後中断していましたが、大村小学校創立100周年記念式典をさかいに、上手地区小牧で復活しました。
棒踊り
呪器を打ち合わせて、悪霊退散を祈る踊りで、藩主が士気を鼓舞するために、農民に躍らせたものともいわれています。
下手馬比尾(まころべ)地区で踊られました。
けどういん音頭
1978年(昭和53年)祁答院町のときに、「けどういん音頭」が作詞作曲されました。
英流(はやぶさりゅう)家元英聖蜂によって、振付がされました。