箞木(うつぼぎ)小学校 [令和6年3月閉校] 唐津市立
佐賀県の廃校・校跡

箞木(うつぼぎ)小学校 [令和6年3月閉校] 唐津市立

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『箞木(うつぼぎ)小学校 』は、佐賀県唐津市厳木町の「箞木小校区(本山・箞木・岩屋・波瀬)」の子どもたちが通っていた小学校です。

箞木小学校は石炭産業が盛んな1959年(昭和34年)のピーク時には、児童数1800人を超えるマンモス校でした。卒業生は5000名あまりを数えます。

箞木(うつぼぎ)小学校の閉校式はいつ?
箞木(うつぼぎ)小学校の閉校式はいつ?

箞木小学校閉校記念式典【唐津市】

唐津市立箞木小学校は2024年(令和6年)3月末で閉校になりました。

箞木小の閉校式は3月23日(土曜日)より、箞木小学校の体育館でおこなわれました。

2024年(令和6年)4月1日から箞木小校区の子どもたちは、中学校に併設された新・厳木(きゅうらぎ)小学校へ通っています。

箞木(うつぼぎ)小学校の校歌
1.紫匂う 天山の
高き姿を 仰ぎつつ
やさしく強く またさとく
伸びゆく 我等に
望みあり

2.珠をくだきし 松浦の
清き流れを 心とし
たゆまずうまず 一すじに
はげむ我等に
力あり

3.望みと力を 身にしめて
日々のつとめも いそいそと
誠の大路 ゆるみなく
進む我等に
光あり

箞木(うつぼぎ)小学校 [唐津市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 箞木小学校
住所 〒849-3132 佐賀県唐津市厳木町厳木 箞木306
閉校年月日 2024年(令和6年)
沿革 1875年(明治8年)- 「岩屋小学校」(下等・中等)が設置される。
1876年(明治9年)
4月 – 第2次府県統合により三潴県の管轄となる。
5月 – 長崎県の管轄となる。
1878年(明治11年)
10月 – 郡区町村編制法の長崎県での施行により、東松浦郡が発足。
この年 – 波瀬に「中島小学校 波瀬分校」が設置される。
1883年(明治16年)5月 – 佐賀県(第3次)の管轄となる。
1885年(明治18年)4月19日 – 岩屋小学校が隣村(田頭村)の相知小学校田頭分校と統合の上、「東川小学校」に改称。また中島小学校から波瀬分校が分離・独立の上、「波瀬小学校」として独立。
1886年(明治19年)- 小学校令が施行される。
1887年(明治20年)4月 – 簡易科(3年制)を設置の上、「簡易東川小学校」・「簡易波瀬小学校」に改称。
1889年(明治22年)4月 – 町村制の施行により、厳木村が発足。この際、東川分校が(厳木村)岩屋分校と(相知村)東川分校に分離し、岩屋分校が尋常中島小学校に移管される。
1890年(明治23年)4月 – 波瀬小学校が統合により、尋常中島小学校 波瀬分校となる。
統合
1894年(明治27年)4月 – 中島尋常小学校より岩屋分校と波瀬分校の2分校が分離・統合の上、「箞木尋常小学校」として独立。箞木に統合校舎を新設。
1907年(明治40年)4月 – 改正小学校令により、義務教育年限(尋常科の修業年限)が4年から6年に延長されたため、尋常科5年を新設。これに伴い、児童数が増加したため、校舎の建設に着手。
1908年(明治41年)
4月 – 尋常科6年を新設。
5月13日 – 新校舎に移転完了。この日を開校記念日と制定。
1919年(大正8年)5月 – 3教室を増築。
1915年(大正4年)
4月 – 私立貝島岩屋尋常小学校の校舎が完成するまでの間、箞木小学校の校舎の一部を貸与し、尋常科1~3年生261名を収容。
6月 – 私立貝島岩屋尋常小学校の校舎が本山に完成したため、校舎一部の貸与を終了。
1922年(大正11年)5月15日 – 高等科(修業年限2年)を設置の上、「箞木尋常高等小学校」に改称。
1926年(大正15年)4月 – 私立岩屋尋常小学校の卒業生(6年修了者)を高等科に受け入れる。
1935年(昭和10年)4月 – 青年学校令の施行により、村内の農業補習学校と小学校の高等科が統合され、厳木高等実業青年学校となったため、「箞木尋常小学校」に改称。
1941年(昭和16年)4月1日 – 国民学校令の施行により、「箞木国民学校」に改称。尋常科を初等科に改める。
1947年(昭和22年)4月1日 – 学制改革により、国民学校初等科が「厳木村立箞木小学校」に改組される。
1948年(昭和23年)5月 – 育友会が発足。
1952年(昭和27年)5月3日 – 町制施行により、「厳木町立箞木小学校」に改称。
1953年(昭和28年)- 講堂が完成。
1955年(昭和30年)8月 – 木造2階建の新校舎が完成。
1956年(昭和31年)4月 – 表校舎が完成。
1958年(昭和33年)11月 – 木造2階建の裏校舎(12教室)が完成。
1961年(昭和36年)9月 – プールが完成。
1963年(昭和38年)7月 – 完全給食を開始。
1972年(昭和47年)8月 – 給食センター方式に変更。
1987年(昭和62年)3月 – 多目的ルーム(ランチルーム)を改築。
1995年(平成7年)- 鉄筋コンクリート造3階建の新校舎が完成。
1996年(平成8年)
2月 – 体育館が完成。
9月 – 運動場に夜間照明が設置される。
2005年(平成17年)1月1日 – 唐津市への編入により、「唐津市立箞木小学校」に改称。
2009年(平成21年)4月1日 – 特別支援学級を設置。
2010年(平成22年)4月1日 – 複式学級を3・4年生で設置。
2011年(平成23年)4月1日 – 唐津市立本山小学校を統合。これにより、複式学級が解消。
2024年(令和6年)
3月23日 – 閉校式を挙行。
3月31日 – 唐津市立厳木小学校に統合のため閉校。[1]

[1] 出典:ウィキペディア

箞木(うつぼぎ)小学校がある場所

箞木(うつぼぎ)小学校がある場所

箞木小校区 [出典:学区マップ]

箞木小学校がある校区は、佐賀県唐津市厳木町の箞木・岩屋・波瀬・本山(向前・下厳木・上厳木・大橋を含む)地区で、むかしの厳木町のうち「旧箞木村・波瀬村・岩屋村・本山村・厳木村の一部」にあたります。

箞木(うつぼぎ)とは?

箞木小校区は、田畑が点在する波瀬(なみせ)、炭鉱当時の名残をとどめ、昔ながらの商店街が残る岩屋(いわや)・新屋敷(しんやしき)、そして学校周辺の箞木(うつぼぎ)の4つの地区で構成されており、細長い地形が分布しています。

小学校のそばを国道203号線や、JR唐津線が通り交通の便がよいですが「児童通学の危険」も多く、交通指導には気を配られたそうです。

佐賀県唐津市の箞木(うつぼぎ)という地名は、消えていく全国的にもめずらしい「箞」という難読漢字を使った場所です。

「箞(うつぼ)」という漢字を使った地名は、唐津市のこの一帯しかみられず、難読漢字のためJIS漢字(日本産業規格漢字)からも漏れ、現在は単純に「竹冠に巻く」ほうの漢字で定着しています。

箞木(うつぼぎ)の地名の起源について、地元の教育委員会の方たちのあいだでは「仏像や信仰から巨木信仰があったためでは?」という推測がたてられましたが、実際に神社も含めそういった神木(ふるい木)はないようです。

箞木(うつぼぎ)という名前に変化するまでに「木の穴→それに形の似た道具→それに似た魚や植物→穴の開いた木」を経て、それにあてる漢字を「武具の国訓」から探し出すという3段階から5段階の過程があったとされ、地元では今でも「とてつもなく古い大きな木の意味だ」と伝承されています。

出典:三省堂辞書ウェブ(笹原宏之博士)

箞木小校区は、北側・西側に相知町(おうちちょう)、東側に厳木町牧瀬、南側は厳木町木場に隣接しています。

箞木の歴史

箞木(うつぼぎ)小校区は、厳木町(きゅうらぎまち)のなかの箞木村・岩屋村・本山村・波瀬村という集落が江戸時代にあった地区になります。

箞木小学校も、明治8年のスタート時の名称は「岩屋小学校」で、その後東川小と改称後に波瀬小学校と合併し、箞木小学校(うつぼぎしょうがっこう)となりました。

本山村は、江戸時代から字椎立木場(しいたちこば)で石炭が採れ、波瀬村(なみせむら)は厳木郷と大川野郷(現・伊万里市)を結ぶ通路があり、戦国時代末期には鶴田氏が岩屋村との境に「獅子ヶ城」を建て、居城していました。

岩屋村も、集落の背後に石炭層を有する砂岩があり江戸時代末期から昭和初期にかけて、大小いくつかの炭鉱がありました。1828年(江戸時代・文政11年)に字犬の谷で、採炭した記録が残っています。

箞木村は江戸時代より厳木村のうちでしたが、波瀬村・岩屋村・本山村は、1889年(明治22年)の町村制施行により、広瀬村・浦川内村・中島村・牧瀬村・瀬戸木場村・笂木村・天川村・広川村・鳥越村・平之村・星領村[大部分]とともに、合併し新設「厳木村(きゅうらぎむら)」となりました。

1952年(昭和27年)5月3日には、厳木村は町制施行して「厳木町(きゅうらぎまち)」となります。

2005年(平成17年)1月1日、厳木町は唐津市・浜玉町・相知町・北波多村・肥前町・鎮西町・呼子町と合併し、新設「唐津市」が誕生しました。

唐津市の箞木にある有名なもの
唐津市の箞木にある有名なもの

箞木炭鉱【出典:ふぁーんさんのサイト】

箞木炭鉱

箞木炭鉱(うつぼぎたんこう)は、県道350号線とJR唐津線が並ぶ沿道集落に入るワキ道に、ウツボ木炭鉱坑口跡1と2が残っています。

⇒ さらに詳しく箞木炭鉱を見る

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唐津市とその地域 [佐賀県]
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