永野(ながの)小学校【令和6年3月閉校】鹿児島県さつま町
鹿児島県

永野(ながの)小学校跡 [さつま町]

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永野(ながの)小学校は、鹿児島県薩摩郡さつま町の永野地区にある小学校です。

永野小学校の閉校はいつ?

永野小学校の閉校はいつ?

永野小学校の閉校記念碑【鹿児島県薩摩郡さつま町】

薩摩川内市立永野小学校の閉校は、令和6年3月でした。最後の在校生は、新1年生1名、2年生4名、3年生1名、4年生2名、5年生2名、6年生4名の14名です。

2024年(令和6年)4月から、求名小学校・中津川小学校と統合され新しく「薩摩小学校」としてスタートします。

永野小学校の閉校式典はいつ?

永野小学校の閉校式典は、2024年(令和6年)3月9日の土曜日に行われました。

永野小学校の詳細

住所・閉校年月日・沿革
名称 永野小学校
住所 〒895-2203 鹿児島県薩摩郡さつま町永野2562
閉校年月日 2024年(令和6年)
沿革 1875年(明治8年)泉福寺敷地に弘道館を設立
1879年(明治12年)教育令制定 永野小学校設置
1882年(明治15年)改正教育令により、初等科・中等科・高等科の三段階にわける
1884年(明治17年)藁ぶき二棟の校舎建設。山下4145番地に金山小学校の前身を開設
1891年(明治24年)学校敷地を現・アロン電機の場所に移転
1892年(明治25年)校舎一棟50坪が完成。7月 – 小学校指定により金山小学校開校式
1898年(明治31年)永野高等小学校を併設
1904年(明治37年)生徒数194名
1907年(明治40年)敷地の拡張と増築工事
1911年(明治44年)永野尋常小学校が金山尋常小学校を合併。以後、金山分教場となる。
1912年(明治45年)生徒数303名
1914年(大正3年)木造平屋建て瓦葺きで教室三棟・講堂一棟・附属建物三棟が落成
1922年(大正11年)生徒数532名
1932年(昭和7年)永野小学校金山分教場を藤絹織物工場敷地内に移転。新校舎起工
1937年(昭和12年)永野国民学校に改称
1945年(昭和20年)熊毛郡中種子町野間国民学校の児童304名が永野に集団疎開
1947年(昭和22年)六・三制による新制「永野小学校」「永野中学校」が発足
1952年(昭和27年)永野金山閉山。金山地区の人口が減少。永野小学校校舎の改築第一期工事に着手
1954年(昭和29年)永野小学校校舎落成式
1958年(昭和33年)薩摩町役場庁舎を理科教室・図書室として転用
1968年(昭和43年)永野小学校金山分校(開校83周年目)が廃止。本校に統合。
1970年(昭和45年)永野中学校廃校のため、その跡地に校舎を移転。
1976年(昭和51年)鉄筋コンクリート造二階建の新校舎が落成
1977年(昭和52年)体育館落成
永野小学校の動画
永野小学校の校歌

1.山脈きよく 日に映えて
緑の風のわくところ
歴史をほこる 学び舎に
ひとみ明るく 元気よく
学ぶわれらだ 永野小学校

2.豊かな流れ あわせゆく
金山川の せせらぎに
心をみがき 身をきたえ
みんな仲よく 肩くんで
励むわれらだ 永野小学校

3.朝夕あおぐ 中岳の
はるかな空は 夢をよぶ
つばさもかるく はばたいて
望み大きく たくましく
生きるわれらだ 永野小学校

永野小学校の校舎

永野小学校の校舎

永野小学校の校舎配置図1階【鹿児島県薩摩郡さつま町】

鹿児島県薩摩郡さつま町にある「永野小学校」の校舎は、1976年(昭和51年)に作られた鉄筋コンクリート二階建ての建物です。

1階には、新1年生の教室・家庭科室・保健室・売店・事務室が正面玄関にむかって、右側に並んでいます。

玄関より左側には、職員室・校長室・理科準備室・理科室があり、離れて小鳥舎があります。

永野小学校の校舎

永野小学校の校舎配置図2階【鹿児島県薩摩郡さつま町】

永野小学校の校舎の2階には、正面玄関からむかって左側から、図書館・6年生教室・5年生教室・4年生教室・3年生教室・2年生教室・コンピュータ室、そして音楽室がありました。

運動場には、夜間照明設備があり、タイムカプセル、そしてプールには小プールと更衣室も併設されています。

閉校される永野小学校の正面向かって、裏側の坂をのぼったところには「幼稚園舎」=遊戯室があり、そこにも運動場と砂場、遊具が置かれていました。

永野(ながの)小学校とは

永野(ながの)小学校とは

左斜めから見た、永野小学校校舎【鹿児島県薩摩郡さつま町】

永野小学校は、永野地区(金山・新町・仕明・吉川・新岩元・駒ヶ段・簗平・下別府・南川)の小学生が通った小学校です。

⇒ 永野(ながの)とは?

永野(ながの)小学校の校章

永野(ながの)小学校の校章

桜と翼をモチーフにした、永野小学校校章【鹿児島県薩摩郡さつま町】

永野小学校がある永野地区とは?

永野小学校がある永野地区とは?

運動場からながめた永野小学校校舎【鹿児島県薩摩郡さつま町】

永野小学校がある永野地区は、鹿児島県薩摩郡さつま町の東にあって、北側は伊佐市、東側は湧水町の幸田地区と、霧島市の山ヶ野・横川、西側はさつま町の中津川地区、町境には祁答院黒木地区、姶良市の堂山地区とも一部つながっています。

永野地区の風景
永野地区の風景

永野小学校の近くある、薩摩永野駅跡【鹿児島県薩摩郡さつま町】

永野小学校がある「永野(ながの)」は、古くから、永野金山で栄えた地区で、かつては「薩摩永野駅」が運行しており、電車が走っていました。

永野小学校から坂を下るとすぐに、鹿児島県道50号線(牧園薩摩線)があり、そこに永野郵便局・ガソリンスタンド(ENEOS 永野SS)、そしてアロン電機の工場があります。

永野小学校区にあった「永野金山」は、1640年(江戸時代寛永17年)から1953年(昭和28年)まで、300年間も稼働して、金を算出した鉱山でした。

永野地区の風景

長野(永野)金山の案内マップ

永野金山は、1640年(江戸時代寛永17年)、宮之城(現・さつま町)領主である島津久通(しまづひさみち)により発見されました。

1904年(明治37年)には、第7代鉱業館長となった五代龍作により、大規模な近代化に成功します。

その後、1907年(明治40年)には、西郷隆盛の長男である「薩摩菊次郎」によって、永野地区に夜学校が開設され、それが「永野小学校」の基礎となっています。

永野(ながの)の伝統文化

永野(ながの)の伝統文化

永野金山に関係している「時吉の金山踊り」

永野地区の伝統文化として、「岩元の秋津舞」と、金山に関係する宮之城時吉の「金山踊り」があります。

地域のお祭りとしては、永野地区の南方神社例大祭で奉納される「秋津舞」と「兵児踊り」が有名です。

秋津舞

秋津舞は、あきすめろと呼ばれているようです。

1597年(安土桃山時代・慶長2年)島津義弘が豊臣秀吉の指示で朝鮮出兵した際に、敵の援軍を破って「薩摩隼人」の勇名をとどろかせて凱旋した記念に、将兵の士気を高める(鼓舞)するための踊りです。

構成は、入れ太鼓2名・かね4~8名・太鼓10名前後、合計20人程度で、①勢ぞろい②出陣③攻撃④凱旋 の様子を、それぞれ隊形を変えながら、勇ましく激しく踊る太鼓踊りになります。

永野地区では、かごしま地域塾として登録された「永野兵児塾」の取り組みの一環として、『秋津舞』が伝承されています。

時吉の金山踊り

同じさつま町の時吉地区(宮之城)にて、時吉の金山踊りと呼ばれる「無形民俗文化財」の踊りがあります。

こちらの踊りは、永野や山ヶ野にて金山を探しまわったときの踊りを表現したものとして、6人一組三列を、歌に合わせて踊っていきます。

踊り手の衣装は山伏で、右手には錫杖(しゃくじょう)を持って、左手には山刀(やまがたな)を持っています。

お隣の中津川地区の大石神社で開催される、秋季大祭で金吾様踊りとともに、「時吉金山踊」が披露されることもあります。

永野小学校金山分校の思い出

永野小学校金山分校の思い出

昭和13年当時の永野金山分教場

永野地区には、薩摩永野駅近くの『永野小学校』とは別に、金山近くにある「金山(きんざん)小学校」と呼ばれる学校があり、生徒数は最大で299名もいました。

金山小学校の歴史も古く、1884年(明治17年)に金山地区の有志があつまり学校を建築、1892年(明治25)年に金山小学校として開校式が行われました。

生徒数が299名もいた金山小学校でしたが、突然、1911年(明治44年)に永野村役場から「永野小学校(当時:尋常高等小学校)」に合併する指令がきて、金山地区の人たちは混乱したようです。

当時の、学校建設は「村の負担」と寄付金、地区民の労力奉仕によるところが大きく、開校以来、40年近くかけて校地が拡張され、校舎を改築して育て上げた「金山小学校」を、わずか1つの指令書で「分校(分教場)」に格下げになったことに対して、

金山地区民の怒りの声があがり、児童の登校拒否としてボイコットが起きたようです。

その後、何度か会合(話し合い)がもたれ、ようやく同年9月14日から授業が再開、大正2年から小学4年生まで金山分校、5年生以上永野小学校本校に通学させることになりました。

1931年(昭和6年)には、長年の風雨により校舎の老朽化が問題となり、金山分校は現・内山製作所がある場所に移転し、地区民786名が協力し、整地作業をおこないました。

新しい校舎は同年9月27日に起工され、11月には竣工。盛大な落成式が金山町をあげて、開催されました。

永野小学校金山分校は、地区民の愛情が愛着が異常なほどに強かったといいます。こころから「自分たちが作った学校」という誇りがあったようです。

1949年(昭和24年)には3年生まで分校、4年生以上が永野小学校に通うことになった「金山分校」ですが、1952年(昭和27年)の永野金山閉山にともない、人口減少が加速し、1968年(昭和43)年に83年の歴史に幕を降ろし「閉校」しました。

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