改新(かいしん)小学校跡 [鹿児島市]
『改新(かいしん)小学校跡』は、鹿児島県鹿児島市の桜島にある古里地区の子どもたちが通った小学校跡です。
現在、改新小の校舎跡は「鹿児島市役所 市民局・桜島支所東桜島総務市民課・改新交流センター」が再利用しています。
改新(かいしん)小学校は、いつ閉校したの?
鹿児島市立改新小学校は、1997年(平成9年)に休校となり、2014年(平成26年)の3月に閉校となりました。
1997年(平成9年)4月からは、改新小校区の子どもたちは、「東桜島小学校」へ通っています。
改新(かいしん)小学校の校歌
改新(かいしん)小学校跡 [鹿児島市] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 改新小学校 |
住所 | 〒891-1544 鹿児島県鹿児島市古里町262 |
閉校年月日 | 2014年(平成26年) |
沿革 | 1879年(明治12年)に古里小学校として設置。 1889年(明治22年)改新尋常小学校となる。 1892年(明治25年)東桜島村立改新尋常小学校と改称。 1893年(明治26年)4月 – 初めて女子児童1名入学 1914年(大正3年)桜島大爆発。大隅地方へ避難・有村が校区となる。 1941年(昭和16年)4月 – 改新国民学校と改称。 1947年(昭和22年)4月 – 新学制実施で改新小学校と改称(生徒数150名)。 1950年(昭和25年)に東桜島村が鹿児島市に編入され鹿児島市立古里小学校と改称。 1989年(平成元年)5月1日時点の児童数は12名。 1997年(平成9年)4月 – 児童数の減少に伴って休校(休校時の児童数3名)。 2014年(平成26年)3月 – 閉校。 |
改新(かいしん)小学校があった集落「古里」
古里(ふるさと)町とは、鹿児島県鹿児島市の町で、桜島の南部に位置しています。
1783年(天明3年)年には「湯之村(現在の東桜島町)」から分村して、「古里村」となり大隅国大隅郡の桜島郷の管轄におかれました。
ただこの分村時期はあいまいで、1824年(文政7年)の伊能忠敬の測量地図では湯之村と記されていて、薩摩藩編纂の「三国名勝図会」でも古里は湯之村のうちと記述があるようです。
1779年(安永8年)に桜島が大噴火をおこし(安永大噴火)高免村と古里村に火口が出現し、古里村の民家は火山弾によって、焼失し死者6名の被害がでました。
1889年(明治22年)の町村制によって、高免村は近辺にある黒神村・瀬戸村・脇村・有村・古里村・野尻村・湯之村(桜島の東半分)と合併し、東桜島村になりました。
1914年(大正3年)の桜島大噴火では、古里の住民571人(戸数76戸)が、前日より垂水へ避難し、全員無事でした。
1950年(昭和25年)には、東桜島村が鹿児島市に編入され、鹿児島市古里町としました。
古里町の校区には、現在、鹿児島市立東桜島小学校と、鹿児島市立東桜島中学校があります。
古里温泉
町域の南に国道224号線が通っていて、海岸線には「古里温泉」があります。
かつてから古里には、温泉街があり桜島の「大正大噴火」のときには、大きな被害を受け旅館1軒と下宿屋1軒が残るのみになりましたが、昭和初期には復興して9軒まで増えました。
1960年(昭和35年)から、幾たびか桜島が噴火するたびに古里町の旅館の窓が破損する被害がありました。
1984年(昭和59年)には豪雨による土石流で、古里温泉にあるホテル6棟が甚大な被害に遭い、一部のホテルは倒産を余儀なくされました。
改新(かいしん)小学校跡の史跡
改新小学校の校舎は、2階建ての立派な鉄筋コンクリートです。
桜島の昭和火口から4kmほど南下した場所に「改新小」があり、近くには下村避難港と桜島シーサイド・ホテル、さくらじまホテル、そして林芙美子文学碑がある古里公園があります。
元改新小学校のグラウンドは、現在は駐車場として利用されています。
本館のすぐ東隣には別館があり、渡り廊下こそありませんがすぐに2つの棟を移動できる扉がありました。
改新小学校のすぐ近くには、七社神社と改新地域コミュニティ協議会があり、桜島ゲストハウス ulalaふるさと・体験・移住・交流ゲストハウス ikoてらすもあります。