利永(としなが)小学校 [令和3年閉校] 指宿市立
鹿児島県の廃校・校跡

利永(としなが)小学校 [令和3年閉校] 指宿市立

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『利永小学校』は、鹿児島県指宿市の山川「利永小校区(市山上・市山下・寺・利永中・東下・東上・尾下)」の子どもたちが通っていた小学校です。

利永(としなが)小学校 の閉校式はいつ?
利永(としなが)小学校 の閉校式はいつ?

利永小閉校記念碑

指宿市立利永小学校は、昭和20年代あたりに児童数92名を記録したのちは少子化が進み、2021年(令和3年)3月31日をもって、144年の長い歴史に幕を閉じ、閉校となりました。

同年3月13日(土曜日)には、さきがけて閉校記念式典がとりおこなわれました。[1]

閉校式 11:00~11:30(利永小体育館)

1.開式の辞
2.国歌斉唱
3.市長式辞
4.児童代表のことば
5.校歌斉唱
6.校旗返納
7.学校長あいさつ
8.閉式の辞

記念碑除幕式  11:40~11:55(校内西側)

1.開式のことば
2.実行委員長あいさつ
3.記念碑除幕(記念撮影)
4.閉式のことば

思い出を語る会 12:10~13:10(利永小体育館)

オープニング
1.開式のことば
2.亡師、亡友へ黙とう
3.実行委員長あいさつ
4.惜別のあいさつ(卒業生代表・歴代PTA会長代表)
5.乾杯
6.惜別のメッセージ等披露
7.校歌斉唱
8.副実行委員長謝辞
9.閉会のことば

2021年(令和3年)4月から、利永小校区の子どもたちは、同年閉校した大成小・旧山川小・徳光小校区の児童と一緒に、再編により新しく開校した「山川(やまがわ)小学校」へ通っています。

新・山川小学校の校舎は旧大成(たいせい)小学校の建物を改築して利用しています。

新設「山川小学校」で閉校した小学校

⇒ 旧山川小学校
⇒ 大成小学校
⇒ 利永小学校
⇒ 徳光小学校

利永小学校の校歌
利永小学校の校歌

利永小の校章

1.みどりかがやく わが郷土
すくすくのびる 稚松の
よい子よわれら すこやかに
希望明るく 学ぼうよ

2.あした夕べに ほほえめる
開聞岳の けだかさを
胸にうつして たくましく
力を合わせ 進もうよ

3.権現山の 松風と
小波清い 池田湖の
深い啓示を 世に示す
利永校よ 栄えあれ [2]

利永(としなが)小学校 [指宿市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 利永小学校
住所 〒891-0621 鹿児島県指宿市山川利永172
閉校年月日 2021年(令和3年)
沿革 1876年(明治9年)- 利永小学校創設。
1912年(大正元年)- 現在地へ移転。校舎新築。
1924年(大正13年)- 正門前築山、校庭整備。
1933年(昭和8年)- 学校給水施設完成。
1935年(昭和10年)- 講堂建設。
1941年(昭和16年)- 利永国民学校と改称。
1947年(昭和22年)- 利永小学校と改称。
1948年(昭和23年)- 利永村立利永小学校と改称。
1951年(昭和26年)- 講堂改装。
1955年(昭和30年)- 山川町立利永小学校と改称。
1956年(昭和31年)- 上野集落は開聞小学校へ。
1957年(昭和32年)- 創立80周年記念式典をおこなう。
1958年(昭和33年)- 池底・松ヶ窪は池田小学校へ。
1961年(昭和36年)- 完全給食実施。
1962年(昭和37年)- 鉄筋4教室完成。
1964年(昭和39年)- 鉄筋8教室完成。
1965年(昭和40年)- 理科室・図書室完成。
1967年(昭和42年)- プール竣工。
1971年(昭和46年)- 運動場全面に芝生植付。
1977年(昭和52年)- 体育館竣工。
1978年(昭和53年)- 創立100周年記念式典をおこなう。
1985年(昭和60年)- 水洗トイレ・鉄筋2階新築。
1987年(昭和62年)- 家庭科室・水泳更衣室完成。
1991年(平成3年)- ツマベニハウス完成。
1993年(平成5年)- 国旗掲揚台完成・飼育舎新築。
1995年(平成7年)- 南日本花壇コンクール金賞受賞。
2000年(平成12年)- パソコン室完成。
2002年(平成14年)- 第1回校区合同運動会。
2004年(平成16年)- 3・4年生複式学級。
2006年(平成18年)- 指宿市立利永小学校と改称。
2008年(平成20年)- 完全複式学級。
2015年(平成27年)- 国民文化祭・琉球傘踊り出演。
2020年(令和2年)- 閉校記念運動会を利永小単独で開催。
2021年(令和3年)3月13日 – 閉校記念式典。3月31日 – 山川地域小学校学校再編により閉校。[2]

指宿市立利永小学校の校舎

指宿市立利永小学校の校舎

利永小学校の校舎は、1964年(昭和39年)に建てられた鉄筋コンクリート造の2階建てです。

指宿市立利永小学校の校舎

閉校前には、「利永小学校144年間、おおきになあ感恩報謝」の看板が立っていました。

利永(としなが)小学校 がある場所

利永(としなが)小学校 がある場所

鹿児島県指宿市山川利永(画像出典:グーグルマップ)

利永小学校の校区は、鹿児島県指宿市山川の利永地区(市山上・市山下・寺・利永中・東下・東上・尾下)から構成されます。[5]

利永(としなが)地区は、薩摩半島にある九州最大の湖(カルデラ湖)である「池田湖」の南東部に位置し、地区北東の鷲尾岳=わしおだけ(標高411m)の東側は鰻池にも面しています。

利永小校区の歴史

利永小学校がある地区は、江戸時代初期には薩摩鹿児島藩領下の頴娃(えい)郷の中にあり、仙田(せんた)村の「利永(としなが)」と呼ばれていて、ふるくは「利長(としなが)」とも記されていました。

1744年(江戸時代中期・延享元年)に、今和泉(いまいずみ)郷が新設されたことにより、仙田村の利永・尾下(おさがり)・上野(うえの)の3集落が、今和泉郷に編入され「利永」も村(むら)として頴娃郷旧跡帳(1824年・文政7年)に記帳されます。[3]

1889年(明治22年)の町村制施行の際に、利永村は、ほかの岩本村・小牧村・池田村・新西方村と合併し、今和泉(いまいずみ)村が誕生しました。

今和泉村の中心部は、利永地区から5km以上北の海沿いにありました。当時は北へ直接向かう道路が整備されておらず、利永地区から今和泉村役場(岩本)へ行くには、山川町や指宿町を経由する必要がありました。[5]

そこで、1946年(昭和21年)には役場の利永支所が設置されました。

その後、利永地区では独立自治の機運が高くなり、1948年(昭和23年)の今和泉村議会・鹿児島県議会で分村が議決され、9月1日に今和泉村から独立して「利永(としなが)村」が再び発足します。

1955年(昭和30年)、利永村の中で上野(うえの)集落が、開聞町(当時:開聞村)に編入され学区も開聞小学校となります。そして、上野集落をのぞく利永村の大部分が「山川(やまがわ)町」に編入します。

1958年(昭和33年)、利永地区の北東にあった池底(いけそこ)・松ヶ窪(まつがくぼ)集落の校区が、利永小学校から池田(いけだ)小学校に変更となります。

2006年(平成18年)、山川町はほかの旧指宿市・開聞町と合併し、新設「指宿市」が発足します。[4]

現在、利永小のあった住所は、鹿児島県指宿市山川の利永となっています。

利永小校区の伝統文化

利永小校区の伝統文化

利永琉球傘踊り(画像出典:鹿児島県ホームページ)

利永小校区では、利永琉球傘踊り・ダセチッ・メンドンなどの伝統芸能・文化があります。

利永琉球傘踊り(利永区)

「利永琉球傘踊り(としながりゅうきゅうかさおどり)」は、琉球ゆかりの優雅な踊りとして地域全体で守り親しまれています。

江戸時代に、琉球(現:沖縄県)使節団が薩摩(現:鹿児島県)にあがる際に、山川港に滞在し、成川~大山~利永を通って「枚聞(ひらきき)神社」に参詣していました。

その道すがら、踊られていた踊りをまねて作られたのが「利永琉球傘踊り」です。利永地区の人たちは琉球使節団の一行を目にする機会が多かったといわれています。

利永琉球傘踊りの源流は、「上り口説(ぬぶいくどぅち)」という舞踊で、使節団が琉球を出発し、山川港に入港するまでの旅の様子を描いたものです。

笛を吹く子どもたちの踊りが特に、可愛らしい動きで特徴的です。[6]

ダセチッ(利永区)

ダセチッは、新婚家庭の子宝を願う行事=ハラメウチ(嫁女祝)のこと、むかしは各集落でおこなわれていた伝統行事です。

前の年に結婚した家の子どもたちが、ダセ棒をもって新婚家庭に祝福に訪れるのが習わしです。現在利永区では毎年1月14日の日没ごろに、地区の児童が新婚家庭を訪れ、棒で庭の土をつつきながら「ダーセン、ツギナッタ」と祝いごとを唱えます。

利永小学校でも、6年生が中心となって下級生を先導し、この行事を受け継いでいました。[7]

[1] 広報いぶすき令和3年5月号
[2] 利永小学校 閉校記念式典リーフレット
[3] 日本歴史地名大系 「利永村」の解説
[4] ウィキペディア 揖宿郡
[5] ウィキペディア 山川利永
[6] 鹿児島県ホームページ「利永琉球笠踊り」
[7] 海と港の恵み指宿まるごと博物館ホームページ「ダセチッ」

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