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求名(ぐみょう)小学校跡 [さつま町]

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求名(ぐみょう)小学校は、鹿児島県薩摩郡さつま町にある求名地区にある小学校です。創立152周年の歴史があります。

求名小学校の閉校はいつ?

求名小学校の閉校はいつ?

求名小学校の閉校記念碑【鹿児島県薩摩郡さつま町】

さつま町立求名小学校の閉校は、令和6年3月でした。

求名小学校は、2024年(令和6年)4月から、中津川小学校・永野小学校と統合され新しく「求名小学校」としてスタートします。

求名小学校の閉校式典はいつ?

求名小学校の閉校式典は、2024年(令和6年)3月16日の土曜日に行われました。

求名小学校の詳細

住所・閉校年月日・沿革
名称 求名小学校
住所 〒895-2201 鹿児島県薩摩郡さつま町求名2737
閉校年月日 2024年(令和6年)
沿革 1870年(明治3年) 手習所開設(学生発布時第18郷校盈進校分校)
1879年(明治12年) 宮之城村立求名小学校と改称
1880年(明治13年) 木造校舎新築
1890年(明治23年) 習成尋常小学校へ改称
1892年(明治25年) 宮之城村立求名尋常高等小学校と改称
1910年(明治43年) 木造校舎増築・講堂新築
1929年(昭和4年) 校庭拡張、校舎増築、講堂改築
1930年(昭和5年) 狩宿分教場創設
1941年(昭和16年) 求名村立求名国民学校と改称
1942年(昭和17年) 火災のため校舎大半を消失
1945年(昭和20年) 建設中の校舎暴風のため倒壊
1946年(昭和21年) 求名村立求名小学校と改称
1948年(昭和23年) 新校舎落成
1954年(昭和29年) – 9月校舎増築 – 12月 求名・永野・中津川3村合併して薩摩町施行。薩摩町立求名小学校と改称。
1955年(昭和30年) 二階建木造校舎6教室新築落成
1958年(昭和33年) 水泳プール(中学校と兼用)完成
1962年(昭和37年) 屋内体育館新築落成
1970年(昭和45年) 旧求名中学校用地、家庭科教室を小学校へ移管
1978年(昭和53年) 新校舎落成
1981年(昭和56年) 体育館落成
1999年(平成11年) 求名小学校狩宿分校が校舎改築 トイレ簡易水洗
2004年(平成16年) 宮之城・鶴田・薩摩3町合併して「さつま町制施行」
2005年(平成17年) さつま町立求名小学校に改称
2008年(平成20年) さつま幼稚園休園
2011年(平成23年) 狩宿分校閉校記念式典
2013年(平成25年) 旧講堂解体工事
2019年(令和元年) 創立150周年記念事業
求名小学校の動画
求名小学校の校歌

求名小学校の校舎

1.風がかがやく希望なら
みどりあふれる窓あけて
朝のいぶきによみがえる
ああなごやかな求名(ぐみょう)校
2.雲がわきたつ力なら
みんなで仲よく築こうよ
うけて明るい青空に
ぼくらの胸はもえている
ああはつらつの求名(ぐみょう)校
3.はとが平和の使いなら
たたえてあすをつくろうよ
愛とまことのゆめのせて
ひろい世界の友をよぶ
ああ友愛の求名(ぐみょう)校
こえも明るく歌おうよ

求名(ぐみょう)小学校

求名小学校とは?

口からみた求名小学校校舎【鹿児島県薩摩郡さつま町】

求名小学校は、下手・下中福良・求名町・上中福良・未栄の郷・下狩宿・上狩宿・熊田・戸子田・広橋・黒島の地区の小学生が進学して通った小学校です。

求名地区は、鹿児島県中北部の「さつま町」にあって、さらに町内の東部に位置します。

求名地区は、西に鶴田地区・北側に伊佐市針持、東には永野地区、南側は中津川地区と隣接しています。

よって、今回の求名小学校の生徒数減少にともなって、永野地区と中津川地区の子どもたちが「薩摩小学校」として集められ新しくスタートを切ることになりました。

さつま町の中心部の宮之城までは、車で10分もあれば到着します。

求名地区の中心部には、国道267号線が北から南に通っており、その横を求名川が流れています。

求名(ぐみょう)小学校がある場所
求名の中心地

昭和30年代の求名商店街の様子

求名小学校の校舎が建っている場所は、求名の中心地である「中福良」で、1987年(昭和62年)に求名地区にあった「薩摩求名駅」が廃駅になるまでは、その駅から小学校と過去の求名中学校のある場所あたりまでが、旧道として商店街が並び、昭和30年代ごろまで、にぎやかな街並みが広がっていました。

⇒ 求名(ぐみょう)とは?

求名(ぐみょう)小学校がある求名という土地

求名の歴史といえば、1869年(明治2年)に、もともと宮之城(さつま町の中心地)の一部として、飛び地として存在し宮之城の地頭が管理していました。

宮之城は当時、養蚕業の盛んな地区で、求名地区も飛び地ではありましたが明治時代に入ると養蚕業を手がけ、発展していきます。

求名の産業は、大正時代に入ると養蚕以外にも、蜜柑・柿・梨・栗の出荷があり主要な産業として稼働していました。

昭和に入ると、求名村養鶏組合や求名村竹林組合が設立され、鹿児島県の竹林品評会で優勝の栄光に輝きます。

求名(ぐみょう)の施設と伝統文化

鷹踊り

県指定無形民俗文化財の求名下手の鷹踊り

1910年(明治43年)には、求名の中福良に郵便取扱所ができて、その後求名郵便局に改称します。

求名にも、1909年(明治42年)に神田橋英吉が医院を開業、1932年(昭和7年)には今村秀盛が歯科医院を開業し、病院ができはじめます。

1919年(大正8年)に求名に信徳寺というお寺が建立されたころ、求名の村民は、鹿児島県知事あてに宮之城との「分村」の陳述書を提出し、1922年(大正12年)には自治体として求名村が発足しました。

求名地区の当時の人口は、2828人にのぼります。

1935年(昭和10年)に、鉄道である宮之城線の開業にともなって「薩摩求名駅」が完成します。

戦時中は、求名駅と広橋鉄橋に、米軍が来襲し爆弾が投下され、焼失する悲しい出来事がありましたが、戦後、求名では養蚕業の低迷から抜け出すため、お茶の栽培する農家が増加します。

1954年(昭和29年)、求名村・永野村・中津川村が合併し、薩摩町が発足します。役場本所は、旧永野役場に。求名・中津川は支所。

1960年(昭和35年)、求名下手の鷹踊りが県の無形文化財に指定されます。

求名(ぐみょう)小学校の校章

求名小学校の校章

求名(ぐみょう)小学校の校章は、二重の桜花の中心に求名(ぐみょう)の「求」の字を入れ、真理を求め赤い情熱を外側の赤色の花びらで示しています。

求名(ぐみょう)小学校と校舎の歴史
求名(ぐみょう)小学校の校舎

昭和7年ごろの木造校舎

求名小学校の校舎は、1880年(明治13年) に木造校舎新築されました。その後、1910年(明治43年) 木造校舎増築・講堂新築、1929年(昭和4年) 校庭拡張、校舎増築、講堂改築されました。

1915年(大正4年)の生徒数は、男子生徒197名・女子生徒150名の計347名でした。(求名尋常高等小学校)

残念ながら初期の木造校舎は1942年(昭和17年) 火災のため校舎大半が消失してしまいました。

しかも、1945年(昭和20年) 建設中の校舎も暴風のため倒壊する悲劇にみまわれました。

求名(ぐみょう)小学校の校舎

昭和50年ごろの木造校舎

1947年(昭和22年)に教育制度が発足し、求名中学校が創立されます。

当時の、求名中学校の生徒数は、男子生徒110名・女子生徒139名の計249名でした。

それにともない1948年(昭和23年) に、新校舎落成します。

さらに人口増加のため、1955年(昭和30年)には 二階建木造校舎6教室の新築が落成。

現在、建っている鉄筋コンクリートの校舎は、1978年(昭和53年)に作られました。

求名右衛門とは?

求名右衛門とは?

求名小学校の生徒が考えた、ゆるキャラ「求名右衛門」

求名右衛門(ぐみょうえもん)とは、求名小学校のゆるキャラの名前です。

求名小学校の3つ〇(さつまる)運動である、 ①「校区にひびくあいさつ」を求名右衛門の笑顔で表し、②「心をひらく読書活動」を右手に持っている本で表し、③「伝統をつなぐ鷹踊り」を左手に持った鷹と袴の衣装で表しています。

顔はさつま町の特産である梅、目はホタルをイメージして、求名小学校の当時の職員がデザインしました。

求名右衛門は、創立150周年の看板や、閉校式典の看板でも大活躍しました。

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