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松ヶ浦(まつがうら)小学校 [令和7年3月閉校] 南九州市立
『松ヶ浦(まつがうら)小学校 』は、鹿児島県南九州市の「松ヶ浦地区(西塩屋・東塩屋・竹迫・松ヶ浦・門之浦・中渡瀬・仁田尾)」の子どもたちが通っている小学校です。
松ヶ浦小学校は、校訓「強く、おおらかに」をモットーに学業のほかには、ウミガメの保護活動に力を入れていた学校です。
松ヶ浦(まつがうら)小学校の閉校式はいつ?
南九州市立松ヶ浦小学校は2025年(令和7年)3月末で閉校となります。
松ヶ浦小学校の卒業式は3月24日(月)、修了式・離任式は3月25日(火)にとりおこなわれますが、先に
閉校式・記念碑除幕式が、2月16日(日)に開催されます。
その後、松ヶ浦小校区の子どもたちは、2025年(令和7年)4月から知覧町西元にある「霜出(しもいで)小学校」へ通います。
松ヶ浦(まつがうら)小学校の校歌

松ヶ浦小学校の校章【出典:公式サイト】
大海原を 望みつつ
みどりの眉根 輝くは
自主の精神 はれやかに
そびゆる我が校 松ヶ浦
2.雲は旗雲 さつま富士
清き山河を 讃えつつ
集うひとみに 溢るるは
誠実の光 はつらつと
輝く我が校 松ヶ浦
3.我ら国の子 潮風に
心と体 きたえつつ
つなぐ手と手に 脈うつは
友情の血潮 高らかに
栄えよ我が校 松ヶ浦
松ヶ浦(まつがうら)小学校 [南九州市] のデータ
住所・閉校年月日・沿革 | |
名称 | 松ヶ浦小学校 |
住所 | 〒891-0912 鹿児島県南九州市知覧町南別府24941 |
閉校年月日 | 2025年(令和7年) |
沿革 | 1872年(明治5年)- 竹迫の旧第五稽古所で、寺小屋式よりもやや進歩した教育を施す 1875年(明治8年)- 山の神の地に創設 1877年(明治10年)- 西南の役で一時閉校。翌年8月再開 1884年(明治17年)- 当時は尋常科4年、補習科3年 1887年(明治20年)- 松ヶ浦尋常小学校と改称 1902年(明治35年)8月 – 私立松ヶ浦高等小学校認可 1907年(明治40年)7月 – 高等科2年併設 1908年(明治41年)10月 – 現在位置に移転、増築落成 1910年(明治43年)4月 – 私立学校廃止 1916年(大正5年)6月 – 実業補修学校開設 1926年(大正15年)- 航海科、英語科の二科を加える 1928年(昭和3年)8月 – 実業補習学校は知覧公民学校として町に統一される 1929年(昭和4年)11月 – 55周年記念行事挙行 1941年(昭和16年)4月 – 松ヶ浦国民学校と改称 1947年(昭和21年)3月 – 松ヶ浦小学校と改称 1951年(昭和26年)11月 – ミルク給食開始 1953年(昭和28年)2月 – 泰安殿あとに国旗掲揚台竣工 1955年(昭和30年)11月 – 創立80周年行事挙行 1956年(昭和31年)1月 – 校歌制定、3月 – 校旗制定 1961年(昭和36年)3月 – 完全給食実施 1965年(昭和40年)4月 – 鉄筋校舎6教室落成 1968年(昭和43年)8月 – 日の出・日の入り壁画完成 1969年(昭和44年)8月 – 児童標準服制定 1975年(昭和50年)11月 – 創立100周年記念式典挙行、下校庭旧校舎2教室解体 1978年(昭和53年)8月 – プール完工 1982年(昭和57年)9月 – スタンドピアノ購入 1983年(昭和58年)3月 – 特別教室(理科・音楽・図工・家庭・保健・資料室) 1986年(昭和61年)3月 – 屋内運動場落成、7月 – 第1回遠泳大会実施 1987年(昭和62年)4月 – 学校給食でお茶飲用開始 1989年(平成元年)3月 – 濵﨑文庫開設、タイヤ山・忍者ロープ(山坂達者用) 1994年(平成6年)8月 – ウミガメ保護事業(ふ化・放流)、12月 – 飼育小屋新設 1996年(平成8年)1月 – 創立120周年記念式典挙行 2000年(平成12年)8月 – パソコン12台設置 2001年(平成13年)5月 – ウミガメふ化場新設 2006年(平成18年)1月 – 複式教室設置 2007年(平成19年)12月 – 市町村合併により南九州市立松ヶ浦小学校となる 2008年(平成20年)4月 – 完全複式学級(3学級)と特別支援学級 2010年(平成22年)2月 – 大型テレビ・電子黒板導入 2011年(平成23年)4月 – 全校給食開始、10月 – 雲梯設置 2015年(平成27年)2月 – 校舎大規模改造工事完了 2025年(令和7年)3月 – 閉校、霜出小学校へ編入 |
松ヶ浦(まつがうら)小学校がある場所

松ヶ浦小校区【出典:学区マップ】
松ヶ浦小学校がある校区は、西塩屋・東塩屋・竹迫・松ヶ浦・門之浦・中渡瀬・仁田尾の集落を含む地区です。
鹿児島県南九州市の人口が1万6688人(2019年時点)なのに対し、そのなかの松ヶ浦地区は人口が946人(男性:428人、女性:518人)です。
松ヶ浦(まつがうら)とは?
松ヶ浦地区は、国道226号線沿いにJR九州指宿枕崎線の「薩摩塩屋駅」と「松ヶ浦駅」を擁しながら、地区内には食肉加工場・松ヶ浦地区公民館・南部マザーパーク・焼酎工場・お茶の場公園・相ノ浦公園・松ヶ浦港・シーサイドパーク・B&G海洋センター・くるまえび養殖場などがあります。
地理的には、南には東シナ海がひろがり、西は枕崎市と東は頴娃町に面しています。
松ヶ浦は、南九州市のなかの旧知覧町にあって、かつては東別府村と西別府村が南北に細長く存在していて、その南側にあたる地区が校区となっています。
江戸時代までは、東別府村と西別府村でしたが、1882年(明治15年)に西別府のなかで西元村と塩屋村(松ヶ浦西部)が分割独立しました。
続いて、1883年(明治16年)東別府村の中でも、独立自治の機運が高まり一部が南別府村(松ヶ浦東部)となりました。
松ヶ浦の主な産業
松ヶ浦小学校があった松ヶ浦校区は、江戸後期から明治初期にかけて海に面していたこともあり、漁業・海運と畑作という産業で発展しました。
北側にある松山小学校の校区は、菜種を中心にした商業作物地帯で、江戸時代から地主が力をつけて鹿児島県内でも有数の財力をもっていたため、旧東別府村と西別府村の南部にあったこの2つの地域は、早くから教育が熱心な地区となりました。
小学校での私立高等科運動

松ヶ浦小校区 [出典:農業集落境界の閲覧]
1889年(明治22年)の町村制により、松ヶ浦校区の塩屋村・南別府村と、その他西元村・東別府村・瀬世村・永里村・厚地村・郡村があわさり、知覧村が誕生しました。
そして、知覧村の中で「松ヶ浦地区」は、海運業で栄えており小学校の高等科(現在の中学校に相当します)の設置を希望しましたが、最終的に北部にある松山小学校だけ設置が許されたため、私立(住民がお金を出し合い)の高等科設置運動が高まりました。
1901年(明治34年)に、松ヶ浦区民大会を開催し「私立高等小学校設置計画」が議決し、知覧村の役場に「小学校高等4ヵ年の設立認可願書」を提出したものの、認可がおりる前に「松ヶ浦校区民」は、校舎の建設を進め「作業中断」の要請がでても、松ヶ浦の人たちはそれにしたがわず、校舎建設を進めたといいます。
1902年(明治35年)にいよいよ私立松ヶ浦高等小学校の許可がおり、11月には授業が開始されましたが、小学校令の改正により尋常科の就業(仕事につく)年数の延長や、松ヶ浦小学校に高等科が設置されたことにより、1912年(明治45年)には区民議会の協議によって、廃校が決定されました。
短期間ではありましたが、松ヶ浦の住民立小学校高等科の設立は、鹿児島県の中では非常に珍しかったようです。
なぜ、松ヶ浦に私立小学校高等科ができたか?

松ヶ浦酒学校校区安全マップ【出典:公式サイト】
なぜ、松ヶ浦だけ地域住民が資金をだしあってまで、高等小学校(現:中学校)の存続を守りたかったのでしょう?
そのヒントは、松山地区と松ヶ浦地区が江戸末期から、明治にかけてライバル村として大きく対立(悪い意味ではなく)していたことがあげられます。
先述しました通り、松山と松ヶ浦は旧:知覧村の中にあって古くは東別府村と西別府村の北部と南部に位置していました。
この知覧村の中で南部の東西にかけた東・西別府村の2校区(松山・松ヶ浦)は、大地主が登場した畑作地帯の松山と、海運業で栄えた松ヶ浦という地域経済がまったく異なる集合体(コミュニティ)が存在していたのです。
もう少し細かくふれると、松山小学校校区は「商業畑作地帯」で、そこに大規模な大地主が存在し、明治期の知覧における農業形態として、菜種を中心にサツマイモ・大豆・小麦が生産されのちにお茶が増加していきました。
いっぽう松ヶ浦地区は、知覧村で唯一海に面しており、適した船を所有する海運業が、長い年月をかけて発展し、北海道から沖縄までの航路をもっていたといいます。
よって、日本の近代化とともに力をつけていた2つの地区が、小学校高等科の設置を求めるのは自然の流れであり、残念ながら松山小学校だけ高等科が認められたいきさつに、当時松山家という大地主が村会議員で、松山小学校の高等科設置を推進していたことがあげられています。
しかしながら、1882年(明治15年)に西別府のなかで西元村と塩屋村(松ヶ浦西部)が分割独立、1883年(明治16年)東別府村の一部が南別府村(松ヶ浦東部)となったことからもわかる通り、漁業の勢いもすさまじいものがあったようで、松ヶ浦の住民が自分たちがお金を出してでも、未来の子どもたちのために小学校高等科(現・中学校)を作りたいという熱い思いと行動があったことは、決して忘れてはいけないでしょう。
また、今回松浦小学校は閉校して「霜出小学校」へ編入されますが、霜出小学校よりもすぐ北に「松山小学校」があるのに、そこに編入されなかったのは、地域的にライバルな歴史があるからなのか、それとも受け入れられる人数に限りがあるからなのかは定かではありませんが、ライバルであった町に子どもたちを通させたくないような意向があるのなら、歴史は深いものがあるということになります。
ただ、松山小学校へも松ヶ浦地区から4㎞と離れているため、徒歩通学は無理なので霜出小学校にスクールバスで通学するべきであるという見解が正しいでしょう。
出典:南九州大学研報