中津川(なかつがわ)小学校跡 [さつま町]
中津川(なかつがわ)小学校は、鹿児島県薩摩郡さつま町にある中津川地区にある小学校です。
中津川小学校の閉校はいつ?
さつま町立中津川小学校の閉校は、令和6年3月でした。
2024年(令和6年)4月から、求名小学校・永野小学校と統合され新しく「薩摩小学校」としてスタートします。最後の令和5年の児童数は男子16名、女子16名の計32名です。
中津川小学校の閉校式典はいつ?
中津川小学校の閉校式典は、2024年(令和6年)3月10日の日曜日に行われました。
中津川小学校の詳細
住所・閉校年月日・沿革
名称 | 中津川小学校 |
住所 | 〒895-2202 鹿児島県薩摩郡さつま町中津川4269 |
閉校年月日 | 2024年(令和6年) |
沿革 | 北南小学校の沿革(中津川小学校の前身) 1880年(明治13年)南方・北方両字庄屋所跡に15歳以下の男子が就 1882年(明治15年)両校を合併して南方大明神(弓之尾神社)境内に中津川小学校設置 1885年(明治18年)教育令改正 簡易小学校設置 1886年(明治19年)再び旧位置に南方小学校・現在地に北方小学校新設 1889年(明治22年)町内制実施 南伊佐郡大村第四三大区小三区南方、小四区北方と呼称 1892年(明治25年)南方小学校を北方小学校に合併し尋常科を置き、校名を北南尋常小学校と改称 1897年(明治30年)郡制実施 薩摩郡大村字北方・南方と呼称 1900年(明治33年)小学校令改正、義務年限四か年となる 1912年(大正元年)校舎改築竣工 1923年(大正12年)高等化併置、北南尋常高等小学校と校名改称 1940年(昭和15年)校庭拡張 1941年(昭和16年)国民学校令公布、北南国民学校と改称 1947年(昭和22年)北南小学校と改称 1949年(昭和24年)分村して、中津川村となり校名を中津川小学校と改称 中津川小学校の沿革 1951年(昭和26年)南側3教室落成 1953年(昭和28年)校訓制定・講堂落成 1954年(昭和29年)校庭の拡張・町村合併により薩摩町立中津川小学校となる 1955年(昭和30年)東側3教室落成 1956年(昭和31年)校舎2階建て6教室落成 1957年(昭和32年)西側3教室・宿直室落成 1961年(昭和36年)給食室完成・週5日制の完全給食実施・校庭拡張 1970年(昭和45年)プール竣工・落成式 1973年(昭和48年)屋内運動場落成 1979年(昭和54年)鉄筋2階建て校舎完成 1980年(昭和55年)創立百周年記念式典・記念碑・理科施設完成 1985年(昭和60年)水泳脱衣室改築 1993年(平成5年)大石神社400年祭文化財少年団参加 1997年(平成9年)円形花壇設置 2000年(平成12年)創立120周年記念式典 2001年(平成13年)屋内運動場完成 2003年(平成15年)中津川幼稚園閉園 2005年(平成17年)三町合併により「さつま町立中津川小学校」と改称 2006年(平成18年)3・4年複式学級編制 2007年(平成19年)1・2年、3・4年生複式学級編制 |
中津川小学校の動画
中津川小学校の校歌
1.朝だ 希望の まゆわかく
あおぐみどりの 中岳に
昇る平和の 陽をあびて
みんな歌おう 元気よく
われらの村よ 中津川
2.昼だ 自由の 青空が
呼ぶよ白雲 この理想
貫く自治の 鐘はなる
みんなはげもう 根気よく
われらの学びやよ 中津川
3.夕べ 溢れる 野の幸に
香る文化の 花は咲く
熱き感謝の 手をむすび
みんな築こう ゆるぎなく
われらの郷土 中津川
中津川小学校の校舎
鹿児島県薩摩郡さつま町にある「中津川小学校」の校舎は、1979年(昭和54年)に作られた鉄筋コンクリート二階建ての建物です。
1階に、校長室と職員室、新1年生の教室があり、2階に2年生から6年生の教室がありました。
正面からむかって、左端が図書室・右端が音楽室で、複式学級になってからは空いている教室は、児童会室・資料室・多目的室になりました。
1階の事務室だった右端の部屋も、郷土資料室になっています。
中津川(なかつがわ)小学校とは
中津川小学校は、中津川地区(別野・弓之尾・尾原・武白猿・北方町)の小学生が進学して通った小学校です。
中津川地区は、鹿児島県中北部の「さつま町」にあって、さらに町内の東南部に位置します。
中津川(なかつがわ)小学校の校章
中津川小学校の歴史
中津川小学校は、1880年(明治13年)に開校以来、校名が何度も変わっています。
現在の、中津川小学校に改称されたのが1949年(昭和24年)です。では、その前は何という名前の小学校だったのかというと、北南小学校と呼ばれていました。
北南小学校時代
中津川小学校の前身である北南小学校という名前は、当時の中津川地区にあった「北方村」と「南方村」の2つの集落にあった学校を統合させたところから由来しています。
江戸時代後期から明治初期にかけては、北方村周辺の集落である北方村と、南方川周辺の集落である南方村が存在していました。
1880年(明治13年)北方村・南方村それぞれの庄屋(村長)で15歳未満の子どもが勉強を開始しますが、2年後には南方大明神(弓之尾神社)の境内に、一度は中津川小学校ができます。
しかし、その4年後の1886(明治19年)には、再び旧位置に南方小学校・現在の中津川小学校の場所に北方小学校が新設されます。
これは、それぞれ北方村と南方村の地域性があっての別々の学び舎設置だと思われますが、1889年(明治22年)~1897年(明治30年)に郡制が実施されると、大村郷(現・薩摩川内市)に組み込まれ、大村字北方・南方と呼称され、再び両校は合併し「北南尋常小学校」と改称されます。
その後、1947年(昭和22年)に北南小学校と改称されるも、2年後の中津川村独立で、中津川小学校となるまで北南の名称は続いていきます。
勲は香る松が枝の
幾世の緑色増して
仰ぐ我等の金吾様
遺風さながら目の辺り
中津川小学校時代
1949年(昭和24年)に、大村からの分村として、中津川村ができたため「中津川小学校」としてあらためてスタートしました。
1951年(昭和26年)から1957年(昭和32年)にかけては、毎年、校舎の整備がすすめられました。
そして、1973年(昭和48年)に屋内運動場、1979年(昭和54年)には現在の鉄筋コンクリート二階建ての校舎が作られました。
1978(昭和53年)には、開校100周年記念式典が開催され、中津川校区民とともにお祝いされました。
中津川(なかつがわ)の子どもたちと伝統文化
中津川地区には、大石神社があり「金吾左衛門尉歳久」が祀られており、秋季大祭に奉納される踊りが「金吾様踊り」と呼ばれ、中津川地区の昔から言い伝えられている伝統文化です。
1580年(安土桃山時代天正8年)に島津家の歳久(金吾様)が祁答院十二郷(現在のさつま町)の土地を平定(その地方を安らかにする)し、虎居城(現・さつま町宮之城)に入城したことが起因しています。
中津川地区では、子どもたちの情操教育の一環として、文化財少年団を結成し郷土芸能「バラ踊り」を伝承し、大石神社例祭と運動会で披露していました。
しかし、2007年(平成19年)には、バラ踊りから俵踊りへ移行となりました。