野子(のこ)中学校 [令和3年閉校] 平戸市立
長崎県の廃校・校跡

野子(のこ)中学校 [令和3年閉校] 平戸市立

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『野子(のこ)中学校 』は、長崎県平戸市の野子・福良・宮の浦・高島に住む「野子中校区」の生徒たちが通っていた平戸島最南端の中学校です。

閉校後の校舎は、そのまま「野子小学校」が単独で引き継いでいます。

野子(のこ)中学校の閉校式はいつ?

「平戸市立野子中学校」の閉校式は、2021年(令和3年)2月27日(土曜日)にとりおこなわれ、在校生6名とその保護者・教職員・来賓など42名が出席しました。

まず、出席者全員で校歌斉唱し、校舎下では小中学生が卒業記念で描いた壁画が、来校者を出迎えました。

校長先生は、「野子中学校は文武に優れ、学力面では長崎県下でも上位の成績をおさめてきました。運動面では、令和元年度に女子バレーボール部が長崎県中総体で3位に入賞するなど輝かしい成績を残しました。中学校閉校は心から残念ですが、生徒数減少という現実を考えるとやむを得ないことと思います。校舎は後輩である小学生に引き継がれます。これからも地域とともにある学び舎として受け継いでいきます。南部中でも、野子魂を発揮して活躍を期待しています」とあいさつしました。

式典の最後には、校長から教育長へ「野子中学校」校旗が返納されました。

同年4月1日より、野子中校区の子どもたちは「南部(なんぶ)中学校」へ通っています。

野子(のこ)中学校の校歌

野子小中学校の校歌です。

1.志々伎御山を 仰ぎつつ
高くとうとき 気をうけて
月照軒に 月のごと
さやかに建てる野子のやに
学ぶ我れは 幸多し
学ぶ我らは幸多し

2.つくしのしずめと この土地に
神しずまりて 幾千年
平和の守り 今になお
つたえしのりを 身にしみて
いざもろともに 受けつがん
いざもろともに 受けつがん

野子(のこ)中学校 [平戸市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 野子中学校
住所 〒859-5535 長崎県平戸市野子町1955
閉校年月日 2021年(令和3年)
沿革 1947年(昭和22年)- 学制改革により、野子国民学校高等科を廃止し、6・3・3制による野子中学校および高島分校を置く。
1950年(昭和25年)- 本校、木造新校舎落成。
1954年(昭和29年)- 高島分校新校舎落成。
1955年(昭和30年)- 市制施行により平戸市立野子中学校並びに高島分校と改称。
1963年(昭和38年)- 野子中学校校旗作成。
1971年(昭和46年)- 本校鉄筋3階建て新校舎竣工。校区変更により、向月集落が南部中学校区となる。
1998年(平成10年)- 本校体育館落成。
2006年(平成18年)- 野子中学校高島分校閉校。
2010年(平成22年)- スクールボート運行開始。
2019年(令和元年)- 女子バレー部が県中総体3位入賞。
2021年(令和3年)3月31日 – 南部中学校に統合のため閉校。

平戸市立野子中学校の校舎

平戸市立中津良中学校の校舎

野子中学校は、福良漁港をみおろす丘の上に建っています。

平戸市立中津良中学校の校舎

学校からは、山側の野子町の集落も見えます。

平戸市立中津良中学校の校舎

校舎は、1971年(昭和46年)に建てられた鉄筋コンクリート造の3階建てで、閉校後は「野子小学校」が単独で使用しています。

平戸市立野子中学校の校舎

奥に見えるエメラレルドグリーンの体育館は、1998年(平成10年)に完成したもので、バレーボールや剣道で優秀な成績を残してきた野子中の生徒がここで日々練習に明け暮れたことでしょう。

平戸市立野子中学校の校舎

校舎と体育館の間には、ため池もありました。

平戸市立野子中学校の校舎

校舎を左側からながめた風景です。

2020年(令和2年)度は、中学生6名、小学生30名が同じ校舎で学ぶ、平戸市内に2校のみの小中併設校でした。

平戸市立野子中学校の校舎

校舎を体育館側から見た風景です。

日々の学校生活はもちろん、運動会や文化祭・入学式・卒業式などの学校行事で中学生が小学生の世話をおこない、学校生活を通して思いやりの心が育まれました。

小学生も、同じ校舎に中学生というお手本がいることで、数年後に自分の成長した姿を思い描くことができ、校内では中学生を慕っている姿が見られました(出典:広報ひらど令和3年4月号)。

平戸市立野子中学校の校舎

校舎側から運動場を見た風景です。野子中学校はテニスでも優秀な成績を残した学校でしたが、年々生徒数が減少し、部活動の関係で隣の「南部中学校」に通う生徒も増えていきました。

野子(のこ)中学校がある場所

野子(のこ)中学校がある場所

野子中校区(画像出典:学区マップ)

野子(のこ)中学校がある場所は、長崎県平戸市の野子(のこ)町です。

校区は、平戸市のあとに「野子町」と続く地域(船越・向月集落をのぞく)の野子・福良・宮の浦・高島地区で構成されています。

野子町は、平戸島の最南端に位置し、志々伎(しじき)湾の南にのびる野子半島にあるまちで、

志々伎(しじき)山=標高347.2mのふもと、豊かな自然に囲まれており、海側は「福良漁港」と「宮ノ浦漁港」を有する漁業が盛んな地域です。

周辺には「高島」などの島々が点在しています。

野子中校区の歴史

野子中校区は、江戸時代には肥前平戸藩の領下で、「津吉村」のうち「野子(のこ)村」とされていました。

宮ノ浦漁港に浮かぶ「沖ノ島」は、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡があり、日本の歴史において「野子」が登場したのは、允澎入唐記=いんぽうにつとうき(渡海した唐明船の記録)で、1452年(室町時代・宝徳4年)に大島に向けて平戸を出た第一次勘合貿易船が「野古(のこ)」に吹き流されたとあります。

また、志々伎山のふもとにあることから、いにしえより沖ノ島・宮ノ浦・野子それぞれに「志々伎神社」が祀られています。

1649年(江戸時代・慶安2年)に完成した「肥前国道法帳=ひぜんのくにみちのりちょう(肥前国内にあるさまざまな街道の道のりを一里塚で示しながら記録したもの)」では、この地にある「宮ノ浦」「氏宮」が記されています。

1889年(明治22年)には、町村制が施行され、野子(のこ)免は、ほかの石堂(いしどう)免・浦志々伎(うらしじき)免・大志々伎(おおしじき)免・小田(おだ)免・早福(はいふく)免とあわせて、自治体「志々伎(しじき)村」が発足しました。

1955年(昭和30年)、志々伎村はほかの平戸町・中野村・獅子村・紐差村・津吉村・野子村と合併し、市制施行して「平戸(ひらど)市」がつくられました。

現在、野子中学校がある校区の住所は、長崎県平戸市の野子町となっています。

野子中校区の名所

野子中校区の名所

本土と繋がった道の最西端(画像出典:グーグルマップ)

本土と繋がった道の最西端「戸屋久」

野子中校区がある野子町は、平戸島の南端でありながら「本土と繋がった道の最西端」の場所「戸屋久(とやぐ)」があり、すばらしい景色が体感でき、日本最西端に達成した充実感が得られると人気です。

道のりはダートで、完全一直線のため一度入り込むと抜け出せなく、車も軽自動車であればギリギリで5ナンバーまでが通れる車幅です。

もし、対向車がやってきたら、かなりの距離の後退をしないといけなく、離合できる場所が極端に少ない悪路で、ガードレールもないため脱輪すると崖に落ちます。

シンプルな記念碑とゲストブックが設置されており、小さな記念チャームも手に入るかもしれません。

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