崎戸(さきと)小学校 [令和4年閉校] 西海市立
長崎県の廃校・校跡

崎戸・蠣浦小学校 [令和4年・昭和43年閉校] 西海市立

総合評価 ★★★★★ 0.0 (0件)
応援する?

『崎戸(さきと)小学校 』は、長崎県西海市崎戸町の蠣浦郷・本郷地域(崎戸小校区)の子どもたちが通っていた小学校です。

1968年(昭和43年)、崎戸炭鉱の閉山にともない崎戸町の児童数が激減したため、旧崎戸小・蠣浦小・昭和小・浅浦小の4校が統合されてできた学校です。

校地と校舎は、そのまま蠣浦(かきのうら)小学校のものが引き継がれました。

崎戸(さきと)小学校の閉校式はいつ?
崎戸(さきと)小学校の閉校式はいつ?

ライトアップされた崎戸小校舎

「西海市立崎戸小学校」は、2022年(令和4年)3月31日に閉校となりました。

閉校式にさきがけて、同年1月14日(金曜日)に、地域住民への感謝を込めて校舎がライトアップされました。

つづいて、同年3月13日(日曜日)、崎戸小体育館にて「閉校式」がとりおこなわれました。閉校式には卒業生や地域住民などが出席しました。

創立54年の歴史をしのび、児童代表のあいさつ、崎戸小鼓笛隊の演奏、崎戸炭鉱の坑内安全を祈願してはじまった「獅子舞」の披露もあり、にぎやかな閉校式となりました。[5]

2022年(令和4年)4月1日より、崎戸小校区の子どもたちは、同年閉校した大島西小・大島東小の児童たちとともに新設「大崎小学校」へ通っています。

崎戸(さきと)小学校の校歌
崎戸(さきと)小学校の校歌

崎戸小学校の閉校記念碑に刻まれた校歌

1.大空にわく 白い雲
若いかもめは 海原に
われらの夢を のせてとぶ
海と空との 美しい
西海の島 崎戸島
たたえよ 崎戸小学校

2.歴史ゆたかな ふるさとの
栄えをつくる 明日のため
学びの鐘の ひびく丘
正しく強い 身と心
日々つちかいて たゆみなし
のびゆけ 崎戸小学校

3.崎戸健児は 胸をはり
うでくみかわし 足ならし
われらの理想 歌うとき
うしお満ちくる 蠣の浦
虹の大橋 紅く映ゆ
はえあれ 崎戸小学校 [9]

旧蠣浦(かきのうら)小学校の校歌

1.青潮巡る 島山の
空に朝日の 匂う時
希望に燃ゆる 幾百の
健児の集い ここに有り
蛎浦 蛎浦
我等の小学校 蛎浦

2.礎古き 我が窓に
望む遥かな 五島灘
見よ白波の 逞しい
姿を胸に 磨きゆく
蛎浦 蛎浦
我等の小学校 蛎浦

3.平和を築く 一翼を
やがてになわん この抱負
働き学び 手を組んで
明るく友と 励み合う
蛎浦 蛎浦
我等の小学校 蛎浦 [3]

崎戸(さきと)小学校 [西海市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 崎戸小学校
住所 〒857-3101 長崎県西海市崎戸町蠣浦郷1771
閉校年月日 2022年(令和4年)
沿革 旧・蠣浦(かきのうら)小学校

1874年(明治7年)4月 – 「公立下等蠣浦小学校」が開校。
1889年(明治22年)4月 – 町村制の施行により、黒瀬村(後に大島町)が発足。黒瀬村立の小学校となる。
1890年(明治23年)- 黒瀬村より崎戸村が分離・独立。崎戸村の小学校となる。
1907年(明治40年)4月 – 崎戸村役場を仮校舎とする。 石炭の採掘が始まり、徐々に人口が増加する。
1913年(大正2年)- 児童数の増加で校舎が不足したため、栗崎にあった中島甚兵衛の長屋を校舎として借用。
1915年(大正4年)4月 – 小学校の運営が蠣浦郷から崎戸村に変更となる。
1931年(昭和6年)10月1日 – 町制施行により、崎戸町が発足。
1941年(昭和16年)4月 – 国民学校令の施行により、「崎戸町蠣浦国民学校」(初等科6年・高等科2年)に改称。
1947年(昭和22年)4月 – 「崎戸町立蠣浦小学校」(6年制)と改称、崎戸町立崎戸中学校蠣浦分室が併設される。
1948年(昭和23年)- 給食調理室が完成し、学校給食を開始。
1958年(昭和33年)5月 – 児童数が最高の864名を記録する。
1960年(昭和35年)10月 – 校歌(旧校歌)を制定。
1965年(昭和40年)12月 – 新校舎(第一期工事)が完成。
1966年(昭和41年)9月 – 新校舎(第二期工事)が完成。
1968年(昭和43年)3月17日 – 崎戸炭鉱が閉山。3月31日 – 統合により閉校。吸収・統合前の児童数は318名。

旧・崎戸小学校(二代目)

1968年(昭和43年)4月1日 - 蠣浦小学校・昭和小学校・浅浦小学校・(旧)崎戸小学校の4校が統合され、旧・蠣浦小学校校地に「崎戸町立崎戸小学校」が開校。児童数は423名(12学級)6月 – 旧4校のPTAが統合され、崎戸小学校育友会が発足。7月 – 新校章を制定。8月 – 新校歌を制定。プールが完成。
1974年(昭和49年)6月 – 創立100周年記念式典を挙行。
1981年(昭和56年)3月 – 体育館が完成。
1994年(平成6年)5月 – 崎戸中学校との合同運動会を開始。
1996年(平成8年)7月 – 第1回ペーロン大会を蛎浦湾で実施。
2000年(平成12年)11月 – 特別教室新校舎が完成。
2005年(平成17年)4月1日 – 西海市の発足により、「西海市立崎戸小学校」と改称。
2011年(平成23年)3月 – 運動場を大規模改修。
2012年(平成24年)4月 – 2・3年生を複式学級とする。
2013年(平成25年)4月1日 – 西海市立崎戸中学校が西海市立大崎中学校に統合される。
2022年(令和4年)3月31日 – 閉校。西海市立大島東小学校・西海市立大島西小学校の2校と統合の上、「西海市立大崎小学校」が開校。[4]

西海市立崎戸小学校の校舎

西海市立崎戸小学校の校舎

崎戸小学校 [2代目] は、崎戸橋や「西海市崎戸中央公民館図書室」をみおろす標高30m(Google Earth, 2026)の高台にあり、ランドマークとしても親しまれてきました。

西海市立崎戸小学校の校舎

崎戸小学校の校舎は、蠣浦(かきのうら)小学校のものが継承されています。初代崎戸小学校は崎戸島の本郷にありました。

西海市立崎戸小学校の校舎

校舎は、1965年(昭和40年)と1966年(昭和41年)の2年をかけて完成した鉄筋コンクリート造の建物です。

西海市立崎戸小学校の校舎

校舎の奥にある特別教室は、2000年(平成12年)に完成しました。

西海市立崎戸小学校の校舎

特別教室を窓からのぞいてみると、どうやら図書室があったようですね。

西海市立崎戸小学校の校舎

運動場側からだとわかりませんが、校舎はコの字形になっていて、中庭もかなり広いですね。

西海市立崎戸小学校の校舎

南側の棟の裏側からの風景です。

西海市立崎戸小学校の校舎

非常階段の窓から、教室の廊下が見えました。

西海市立崎戸小学校の校舎

北側の棟の裏側です。

西海市立崎戸小学校の校舎

北側の棟から、小屋へと続く連絡路がありました。

西海市立崎戸小学校の校舎

内側は、体育倉庫になっています。

西海市立崎戸小学校の校舎

崎戸小学校の正面玄関前です。校章もしっかりついています。

西海市立崎戸小学校の校舎

窓から見た正面玄関側の棟の廊下です。

西海市立崎戸小学校の校舎

体育倉庫のそばにある階段を降りると、運動場側に閉校記念碑が建てられていました。

崎戸(さきと)小学校があった場所

崎戸(さきと)中学校があった場所

崎戸町マップ(画像出典:崎戸町ホームページ)

崎戸小学校があった校区は、長崎県西海市崎戸町の「蠣浦(かきのうら)郷・崎戸本郷」にあたる地域です。

崎戸町(さきとちょう)は、西彼杵半島と五島列島の間にある島々からなる町でした。蠣浦島・崎戸島・江島・平島などで構成され、西彼大島とは中戸大橋で結ばれています。

江戸時代には、捕鯨(クジラをつかまえる)の基地がおかれる、ひっそりとした漁村でしたが、1880年代(明治13年から明治22年あたり)に、漁師によって石炭が発見された [10] ことから、最盛期は「日本三大炭鉱」にかぞえられ、人口2万5000人を有する「炭鉱産業のまち」として、栄えました。

離島ですが、1961年(昭和36年)に中戸大橋の完成により大島(西彼大島)と蠣浦島がつながり、1967年(昭和42年)には崎戸橋が完成し、崎戸港(蠣浦島)の入り江が結ばれました。

1968年(昭和43年)に、崎戸炭鉱が閉山してからは人口が急減しましたが、1971年(昭和46年)には、本郷橋が完成し、崎戸島と蠣浦島がつながり、1999年(平成11年)に大島大橋が開通したことにより、九州本土と陸路でつながりました。

崎戸小校区の歴史
崎戸(さきと)中学校がある場所

崎戸橋から見る崎戸港(画像出典:グーグルマップ)

崎戸小学校の校地があった蛎浦島(かきのうらしま)は、ふるくは、1467年~1469年(室町時代・応仁年間)のとき、多以良(たいら)に拠点をおいた「小佐々弾正(こさざだんじょう)」が、崎戸一帯を支配していたといわれています。

1570年(室町時代・永禄13年)に、平戸松浦氏の軍が「崎戸浦」にうちよせましたが、「小佐々純正」の兵が上陸を阻止したと、大村郷村記に記されています。[6]

江戸時代に入ると、肥前大村藩の領内で、外海(そとめ)に属し「崎戸(さきと)村」の小村としてあつかわれることが多かったですが、1605年(江戸時代・慶長10年)の慶長国絵図(けいちょうくにえず)に「蠣浦(かきのうら)」、1612年(慶長17年)の総検地で「加喜浦(かきのうら)」とされ、そのころに崎戸村から分村したといわれています。

1622年(江戸時代・元和8年)にドミニコ会あての大村ロザリオ組中キリシタン連番書付には「かきの村」と書かれています。[2]

1880年代(明治13年から明治22年あたり)に「炭塊」が発見され、1907年(明治40年)から、九州炭鉱汽船の経営により「崎戸炭鉱」の採掘が、蛎ノ浦島で本格化します。[1]

1889年(明治22年)の町村制施行により黒瀬村となり、翌1890年(明治23年)に黒瀬村から分離して崎戸村が誕生しました。

1931年(昭和6年)崎戸村が町制を施行して「崎戸町」となります。

1943年(昭和18年)、崎戸炭鉱は年間100万トン強を産出し、従業員7500人を超え、崎戸町の人口も25,000人を上回り、人口密度日本一と言われるほどのにぎわいを見せました。[8]

1956年(昭和31年)、江島村・平島村が崎戸町に編入されました。

1968年(昭和43年)、崎戸炭鉱の閉山後、人口は大きく減少しました。

2005年(平成17年)、崎戸町はほかの西彼町・西海町・大島町・大瀬戸町と合併して、「西海(さいかい)市」が誕生しました。[7]

現在、崎戸小学校があった校区は、現在の長崎県西海市崎戸町蠣浦郷・本郷にあたります。

崎戸小校区の名所

崎戸小校区の名所

北緯33度線展望台近くにある曹亜鋼国際芸術交流センター

北緯33度線展望台

北緯33度線展望台(ほくい33どてんぼうだい)は、崎戸小学校校区内にある360度ビューの展望台です。

広い海に沈んでいく夕陽とともに、五島列島や平戸島をのぞむことができ、フォトフレーム型のモニュメントもあるので、絶好の写真撮影スポットになっています。

北緯33度線上にあることから、地理的にも特別感があり、訪れるだけでもちょっとした旅情が感じられる場所となっています。

参考資料・出典

[1] 軍艦島デジタルミュージアム「崎戸炭鉱全盛時代の貴重な古写真を頂きました。」
[2] 日本歴史地名大系「加喜ノ浦」の解説
[3] 蠣浦小学校校歌 Youtube
[4] ウィキペディア 西海市立崎戸小学校
[5] 広報さいかい2022年5月号
[6] 日本歴史地名大系「崎戸村」の解説
[7] ウィキペディア 西彼杵郡
[8] 西海市ホームページ「大発見も!バリエーション豊富な崎戸歴史民俗資料館」
[9] 筆者による現地調査、2026年2月23日実施
[10] 広報さいかい2006年2月号 崎戸探検記

このページのまちがいを教えてください

さらに詳しくこの地域を知る↓

西海市とその地域 [長崎県]
西海市とその地域 [長崎県]

運営会社