大島西(おおしまにし)小学校 [令和4年閉校] 西海市立
長崎県の廃校・校跡

大島西(おおしまにし)小学校 [令和4年閉校] 西海市立

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『大島西(おおしまにし)小学校 』は、長崎県西都市の大島町のうち、大島・中戸・太田尾・塔ノ尾・塩田・田ノ浦の6つの地域(大島西小校区)の子どもたちが通っていた小学校です。

児童の多くはバス通学で、毎週金曜日に校門にて「大島西小校歌」を大合唱してから帰る習慣がありました。

⇒  公式ホームページ

大島西(おおしまにし)小学校の閉校式はいつ?
大島西(おおしまにし)小学校の閉校式はいつ?

大島西小学校閉校式コンサート

「西小は小さな学校、でも大きな家族」をスローガンにしていた148年の歴史がある「西海市立大島西小学校」の閉校式は、2022年(令和4年)3月13日(日曜日)にとりおこなわれました。

在校生とともに、保護者と地域住民あわせて約100名が参加し、校長先生の式辞のあと児童代表のあいさつがあり、その後、大崎中高吹奏楽部・大島造船ブラスバンドの演奏がおこなわれました。

同年4月1日より、大島西小校区の子どもたちは、同年閉校した崎戸小・大島東小の児童たちとともに新設「大崎小学校」へ通っています。

大島西(おおしまにし)小学校の校歌
大島西(おおしまにし)小学校の校歌

記念碑に刻まれた大島西小の校歌

1.島岳に昇る朝日をあびながら
遠きつたえを新しく
受けつぎ集う われら西小
おお西小 その名誇らん

2.百合が岳 心に高く仰ぎつつ
文化のかてのとりいれに
はげみて集う われら西小
おお西小 その名たくまし

3.五島灘 夕日輝くその果ての
潮路のごとく限りなき
希望に集う われら西小
おお西小 その名たたえん

大島西(おおしまにし)小学校 [西海市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 大島西小学校
住所 〒857-2426 長崎県西彼杵郡大島町7720番
閉校年月日 2022年(令和4年)
沿革 1874年(明治7年)9月10日 – 大島(佐々木四郎五郎宅)と黒瀬(宮原弾右衛門宅)の2ヶ所に塾式の学校が設置され、地元学童の教育が開始される。
後に、蛤(はまぐり)、中戸にも塾式の学校が開設される。
1878年(明治11年)5月 – 大島・黒瀬・蛤・中戸の4校が統合され、「公立下等黒瀬小学校」となる。
1882年(明治15年)5月 – 民家を買い取り、改造して校舎とする。
1886年(明治19年)9月 – 小学校令の施行により、簡易科(3年制)を設置の上、「簡易大島小学校」に改称。
太田尾・本郷・中戸・蛤の4ヶ所に分教場を設置。
1889年(明治22年)4月 – 町村制の施行により、黒瀬村立の小学校となる。これにより「簡易黒瀬小学校」に改称。
1890年(明治23年)10月 – 小学校令が改正される。簡易科を廃止し、尋常科(4年制)を設置した上で、「尋常黒瀬小学校」に改称。
1934年(昭和9年)5月 – 校舎を新築。校旗・校歌を制定。
1941年(昭和16年)4月1日 – 国民学校令の施行により、「黒瀬村黒瀬国民学校」(初等科6年・高等科2年)に改称。
1947年(昭和22年)4月1日 – 学制改革(六・三制の実施)が行われる。「黒瀬村立黒瀬小学校」(6年制)が発足。
1948年(昭和23年)5月 – 本郷分校の校舎を改築し、運動場を拡張。
1949年(昭和24年)4月1日 – 黒瀬村が町制施行を行ったため、「黒瀬町立黒瀬小学校」「黒瀬町立黒瀬中学校」に改称。7月1日 – 村名の改称により、「大島町立黒瀬小学校」「大島町立黒瀬中学校」に改称。9月1日 – 「大島町立大島西小学校」(中学校は「大島町立大島西中学校」)に改称。
1959年(昭和34年)1月 – ミルク給食を開始。
1963年(昭和38年)3月31日 5月 – 鉄筋コンクリート造の4教室が完成。
1964年(昭和39年)3月 – 鉄筋コンクリート造3階建ての校舎が完成。
1965年(昭和40年)3月 – 鉄筋コンクリート造3階建て校舎と給食室が完成。
1966年(昭和41年)8月 – 運動場を埋め立てる。
1967年(昭和42年)3月 – 体育館が完成。
1969年(昭和44年)2月 – 学校周辺に桧、ツツジ、マキを植樹。3月 – 健康の像を設置。
1974年(昭和49年)9月 – 100周年記念運動会を開催。10月 – 創立100周年記念式典を挙行。
1977年(昭和52年)4月1日 – 中学校統合により、中学校区が大島町立大島中学校に変更となる。
1980年(昭和55年)8月 – 河川の氾濫により、運動場が冠水(水深60cm)。
1981年(昭和56年)2月 – 運動場が復旧。10月 – プールが完成。
1985年(昭和60年)1月 – 給食を自校調理方式からセンター方式に変更。
1995年(平成7年)3月 – 体育館が完成。
1998年(平成10年)12月 – パソコン室が完成。
2005年(平成17年)4月1日 – 西海市の発足により、「西海市立大島西小学校」(現校名)と改称。
2008年(平成20年)6月 – 父親の会が発足。
2013年(平成25年)4月1日 – 中学校統合により、中学校区が西海市立大崎中学校に変更となる。
2022年(令和4年)3月31日 – 閉校。4月1日 – 大島西小学校校地に「西海市立大崎小学校」が新設。[1]

[1] 出典:Wikipedia

西海市立大島西小学校の校舎

西海市立大島西小学校の校舎

画像出典:グーグルストリートビュー

閉校する前の2019年(平成31年)、大島西小学校校舎の様子です。

西海市立大島西小学校の校舎

画像出典:グーグルストリートビュー

道路をへだてた向かい側には、ナイター設備も整った運動場がありました。

西海市立大島西小学校の校舎

こちらが、閉校から4年後の2026年(令和8年)に訪れたときの、大島西小学校正門からみた校舎の様子です。

西海市立大島西小学校の校舎

校門にもしっかりと、学校銘板が残っていてうれしいです。

西海市立大島西小学校の校舎

正面玄関から、左側の2階建ての鉄筋コンクリート造の校舎と、右の3階建て鉄筋コンクリート造の校舎へ行き来できるような構造です。

西海市立大島西小学校の校舎

大きく、木製の「西海市立大島西小学校」と書かれた学校銘板が残されていました。

西海市立大島西小学校の校舎

玄関のその奥が中庭になっているようです。

西海市立大島西小学校の校舎

校舎が取り囲む中庭には、アニマルランドという看板とともに、飼育小屋があったようですね。

西海市立大島西小学校の校舎

玄関窓からのぞくと右側には、下駄箱が確認できました。

西海市立大島西小学校の校舎

裏山から見た、大島西小学校の校舎です。右側の体育館は1995年(平成7年)にできた新しいもののようですね。

西海市立大島西小学校の校舎

拡大すると、屋根付きの連絡通路が校舎を取り囲んで、内側に先ほどのアニマルランド(飼育小屋)があることがわかります。

この校舎は、1963年(昭和38年)から3年にかけて順番に完成したもので、地区の雇用を支えた「大島炭鉱」が開設された当初1938年(昭和13年)には、大島西小の児童数がピークの1001名いたといわれていますので、まだ閉山する前の児童数の規模がわかる施設の規模といえます。

西海市立大島西小学校の校舎

北棟の校舎の裏側です。

西海市立大島西小学校の校舎

窓から、教室の様子が見えました。思い出の西小と黒板に書かれています。

西海市立大島西小学校の校舎

大島漁港まわりの限られた校地の中に、工夫して校舎が建てられていて、駐車場がプール・体育館前と南棟の横に作られ、その横に遊具を配置した小さな遊び場がありました。

西海市立大島西小学校の校舎

校舎側から見たすべり台・シーソー・ブランコなどの遊具です。小さいですが、道路を渡らなくても子どもたちが安心して遊べる工夫がされていますね。

西海市立大島西小学校の校舎

創立100周年の記念碑も残っていました。

西海市立大島西小学校の校舎

卒業生の卒業制作の石像でしょうか?土台には「大島西小校歌」の歌詞が、刻まれていました。

大島西(おおしまにし)小学校がある場所

大島西(おおしまにし)小学校がある場所

大島西小校区(画像出典:学区マップ)

大島西小学校がある場所は、長崎県西海市の大島町です。

学校は1874年(明治7年)、大島郷・黒瀬郷に塾式学校として創立した伝統ある学校で、時代とともに校名変更や併設・合併や独立などがあり、「大島西小学校」と名称があらたまったのが、1951年(昭和26年)4月のことです。

校区は、大島町のなかの大島・中戸・太田尾・塔ノ尾・塩田・田ノ浦の6つの地区から構成され、大島集落以外の児童はバスに乗って登校していました。

1999年(平成11年)に、対岸の太田和との間に九州本土とをむすぶ「大島大橋」が開通し、まちはさらに活気づきました。

大島西校区のまわりと校区内は、海側は大島漁港・太田尾漁港など五島灘に面したところにあり、山側は自然豊かで、さらに地域の人々は昔から育まれた人情豊かな気質で、「お互い助け合う」精神にあふれていて、これが大島西小児童間のあたたかい縦のつながりにも波及しています。

大島町(現:西海市)は、長崎県の西彼杵半島の北西沖にある「大島(おおしま)」と東側の「寺島」で構成されています。

1949年(昭和24年)までは「黒瀬(くろせ)村」、それ以降は「大島町」として独立自治体として機能していた町です。

もともとは、小さな漁村町でしたが、1935年(昭和10年)から、炭鉱が本格的に開発され、昭和30年代のピーク時には島内の人口は2万人近くまでふくれあがり、24時間体制の活気ある炭鉱町を形成しました。

しかし、エネルギー革命の影響で、1970年(昭和45年)に閉山し、多くの人々は新しい職場を求めて町外へ流出しました。

その後、町の企業誘致の努力が実って、1973年(昭和48年)からは「大島造船所」が設立され、翌年から操業がはじまり「炭鉱のまち」から「造船のまち」へと移り変わっていきました。

現在、西海市大島町は、造船のほかに「完熟トマト(大島トマト)」などの新しい産業の開発や、長崎県内2位の生産量を誇る「焼酎」作りにも取り組んでいます。

出典:大島西小ホームページ・長崎県第2次産業と地域

大島西小校区の歴史
大島西小校区の歴史

大島漁港を有する大島集落(画像出典:グーグルストリートビュー)

大島西小校区は、江戸時代は肥前大村藩の領下で、外海(そとめ)に属していました。

特に、江戸初期は「大島のうち」とだけ記載されることが多く、1644年(江戸時代・正保元年)に外海の番所=ばんしょ(警備や見張りをする人が詰めるための施設)として、吹切(ふっきり)番所が設置されました(黒瀬番所ともいわれている)。

それ以外は、武士のキリシタン発覚や年貢の使い込みをしたもの・殺害した罪人などが流刑の地=るけいのち(罪人などを本拠地から遠く離れた辺境に強制的に住まわせた場所)として、黒瀬に多く配流されました。

1814年(江戸時代後期・文化11年)には、大村藩による小規模な炭鉱採掘が大島南部において、おこなわれた記録がありますが、数年で廃止されました。

1889年(明治22年)町村制の施行により、大島にあった本郷(黒瀬郷)・大島郷・寺島郷・間瀬郷・蛤郷・徳万郷・太田尾郷・中戸郷・塔尾郷・塩田郷の10個の郷が合わさり、黒瀬(くろせ)村として、単独村制の自治体として発足しました。

炭鉱町としての大島町の盛衰

1935年(昭和10年)、松島炭鉱株式会社が、大島炭鉱の第1杭(間瀬)の開発に着手し、翌年より出炭を開始しました。

1949年(昭和24年)4月には、炭鉱により人口が増えた黒瀬村が町制施行して「黒瀬(くろせ)町」となり、同年7月1日には「大島(おおしま)町」と改称します。

1956年(昭和31年)、大島炭鉱全盛期、大島町の児童数がふくれあがり、大島西小学校の南分校が分離して児童数660名のマンモス学校「大島第三(おおしまだいさん)小学校」が誕生します。

1970年(昭和45年)、大島炭鉱が閉山し、大島南小学校の児童数が644名から220名に激減。

1973年(昭和48年)には、大島造船所が設立され、島民のあらたな雇用が生まれます。

1994年(平成6年)、大島南小学校が閉校。あたらしい「大島西小学校」として大島第三小学校の校地を使用しました。

平成17年(2005年)、大島町はほかの西彼町・西海町・崎戸町・大瀬戸町と合併して、「西海(さいかい)市」が誕生しました。

現在、大島西小学校がある校区の住所は、長崎県西海市の大島町となっています。

大島西小校区の名所

大島西小校区の名所

大島神社(出典:グーグルマップ)

大島神社

「大島神社(おおしまじんじゃ)」は、西大島に古くから伝わる伝統行事「餅まき」がおこなわれることでも知られる神社で、大嶋神社とも書きます。

毎年3月になると、大嶋(大島)神社の境内で「米寿・還暦・厄入り」のひとの長寿・無病息災を祈って、神社内でお祓いをしたあと、境内で赤餅(食紅を入れた)と白餅の餅まきをします。

この大島神社は、1572年(室町時代・元亀3年)に建立されたとされる、大島町でもっとも古い神社で、玉祖命(たまのおやのみこと)は玉造部(たまつくりべ)が祭神として祀られています。

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