崎戸(さきと)中学校 [平成25年閉校] 西海市立
長崎県の廃校・校跡

崎戸(さきと)中学校 [平成25年閉校] 西海市立

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『崎戸(さきと)中学校 』は、住所表記で長崎県西都市の崎戸町が続く蠣浦郷・本郷地域(崎戸中校区)の崎戸小の児童が進学して通っていた中学校です。

校舎はすでに体育館を残して解体され、校地は農業生産法人「大地のいのち」食品加工工場(崎戸工場)が再利用しています。

崎戸(さきと)中学校の閉校式はいつ?

「西海市立崎戸中学校」は、2013年(平成25年)3月31日に閉校となりました。

さきがけて、前年の2012年(平成24年)の11月11日(日曜日)に、崎戸中学校体育館にて「閉校記念式典・セレモニー」が午前9時から20分から、生徒によるステージ発表(劇・合唱他)、地域および崎戸小学校児童(有志)によるステージ発表、崎戸中学校についての写真・風景画展示等など、開催されました。

そして、2013年(平成25年)3月15日(金曜日)に、午前9時30分からの卒業式終了後、崎戸中学校体育館にて「閉校式」がとりおこなわれました。

閉校式 内容

国歌斉唱
学校長式辞
市教育委員告辞
生徒代表あいさつ
校旗返納
校歌斉唱
閉校宣言など

同年4月1日より、崎戸中校区の子どもたちは、同年閉校した大島中の生徒たちとともに新設「大崎中学校」へ通っています。

崎戸(さきと)中学校の校歌

1.朝の光の 海うてば
炭脈ひそむ 島の丘
見よ 高峰の 学び舎に
若き命の ひびきあり
崎戸 崎戸 おおわが 中学校

2.文化日本の 新しき
姿を築く この使命
師の み教えを 体しつつ
磨き修めん 知と徳を
崎戸 崎戸 おおわが 中学校

3.空や海なす ただ中の
みどりが島の 朝夕べ
自主 敬愛の 旗風に
若き希望の 火と燃ゆる
崎戸 崎戸 おおわが 中学校

崎戸(さきと)中学校 [西海市] のデータ

住所・閉校年月日・沿革
名称 崎戸中学校
住所 〒857-3101 長崎県西海市崎戸町蠣浦郷1415番地1
閉校年月日 2013年(平成25年)
沿革 1947年(昭和22年)4月1日 – 学制改革が行われる(六・三制の実施)「崎戸町立崎戸中学校」(新制中学校)が発足。中学校の学級数(合計)は13、生徒数は701名でのスタートとなる。
当初、中学校専用の校舎はまだなかったため、崎戸鉱業所の旧・技能鉱員養成所を借り受け「本部」を設置。
蠣浦小学校に併設する形で「蠣浦分室」を、崎戸小学校に併設する形で「崎戸分室」を設置。
1948年(昭和23年)4月 – 崎戸小学校併設の崎戸分室を廃止。
1949年(昭和24年)- 後援会を育友会に改称。
1950年(昭和25年)7月 – 新校舎(第1期工事)が完成し移転。蠣浦小学校併設の蠣浦分室の一部の生徒を収容。
1951年(昭和26年)6月 – 校旗が寄贈される。9月 – 新校舎(第2期工事)8教室が完成し、蠣浦分室の生徒を全て収容し、蠣浦分室を廃止。11月 – 残り6教室が完成。
1964年(昭和39年)- 完全給食を実施。
1968年(昭和43年)3月17日 – 崎戸炭鉱が閉山。
1975年(昭和50年)- 新校舎が完成。
1976年(昭和56年)6月 – 体育館が完成。
1984年(昭和59年)- 給食センター方式を開始。
1991年(平成3年)- コンピュータ室が完成。
1999年(平成11年)- 校舎大規模改修を実施。
2005年(平成17年)4月1日 – 西海市の発足により、「西海市立崎戸中学校」と改称。
2013年(平成25年)3月31日 – 新設「大崎中学校」開校により、閉校。[1]

[1] 出典:Wikipedia

西海市立崎戸中学校の校舎

西海市立崎戸中学校の校舎

崎戸中学校跡地への入り口には、カラフルな看板が残っていました。バス停には「旧崎戸中学校前」と書いてあります。

西海市立崎戸中学校の校舎

画像出典:グーグルストリートビュー

崎戸中学校の校舎は、1975年(昭和50年)に建てられ、1999年(平成11年)に改修された鉄筋コンクリート造の校舎でした。

西海市立崎戸中学校の校舎

画像出典:コープ北陸事業連合ホームページ

跡地の校舎はすでに解体され、「大地のいのち崎戸工場」として再利用されていました。

人工流出・少子高齢化を憂い、社長が「地元に雇用を」を旗印に、加工施設として建て替え、地元で採れた原料をもとにジュースや干し芋の製造をおこない、全国に出荷しています。

西海市立崎戸中学校の校舎

1976年(昭和56年)にできた体育館はそのまま残されていました。

西海市立崎戸中学校の校舎

崎戸中学校の体育館を裏側からみた風景です。

西海市立崎戸中学校の校舎

一段ひくいところに、部室かプールの更衣室のような建物と、テニスコートのような小さな運動場が残っていました。

崎戸(さきと)中学校がある場所

崎戸(さきと)中学校がある場所

崎戸町マップ(画像出典:崎戸町ホームページ)

崎戸中学校校区は、長崎県西海市の崎戸町の後に「蠣浦(かきのうら)郷、崎戸本郷」が続く地域です。

崎戸町(さきとちょう)は、西彼杵半島と五島列島の間に位置する約30キロにわたる島々を町域にするまちで、西彼大島の大島町と中戸大橋でむすばれた蛎浦島・崎戸島・江島・平島から構成されています。

江戸時代には、捕鯨(クジラをつかまえる)の基地がおかれる、ひっそりとした漁村でしたが、1880年代(明治13年から明治22年あたり)に、漁夫によって石炭が発見されたことから、最盛期は「日本三大炭鉱」にかぞえられ、人口2万5000人を有する「炭鉱産業のまち」として、栄えました。

離島ですが、1961年(昭和36年)に中戸大橋の完成により大島(西彼大島)と蠣浦島がつながり、1967年(昭和42年)には崎戸橋が完成し、崎戸港(蠣浦島)の入り江が結ばれました。

1968年(昭和43年)に、崎戸炭鉱が閉山してからは人口が急減しますが、1971年(昭和46年)には、本郷橋が完成し、崎戸島と蠣浦島がつながり、1999年(平成11年)に大島大橋が開通したことにより、いよいよ九州本土と陸路でつながりました。

崎戸中校区の歴史
崎戸(さきと)中学校がある場所

崎戸橋から見る崎戸港(画像出典:グーグルマップ)

崎戸中校区は、ふるくは、1467年~1469年(室町時代・応仁年間)のとき、多以良(たいら)に拠点をおいた「小佐々弾正=こさざだんじょう」により、崎戸一帯を支配されていたといわれています。

1570年(室町時代・永禄13年)に、平戸松浦氏の軍が「崎戸浦」にうちよせましたが、「小佐々純正」の兵が上陸を阻止したと、大村郷村記に記されています。

江戸時代に入ると、肥前大村藩の領下で、外海(そとめ)に属し「崎戸(さきと)村」と呼ばれ、蠣ノ浦島・崎戸島・平島・江ノ島をあせせて「崎戸」と総称する場合と、崎戸島のみを「崎戸」とさす例があり、

1596年~1615年(江戸時代・慶長年間)では、「加喜ノ浦(かきのうら)」が崎戸村から、分立したともいわれています。

1622年(江戸時代・元和8年)にドミニコ会あての大村ロザリオ組中キリシタン連番書付には「さきと村」と書かれています。

1630年(江戸時代・寛永7年)、崎戸地区では鯨組の基地が置かれて、松島・江島・平島などを中心にさかんに捕鯨がおこなわれ、小さな船で巨鯨に挑む漁師や、水揚げされた鯨の解体に従事する人々で、島村の暮らしは一変しました。

1644年(江戸時代・正保元年)、江戸幕府の命令で、大村藩が「異国船警備」のために、崎戸大番所を設置し、オランダ船が出島に入港して停泊する期間、監視しました。

1880年代(明治13年から明治22年あたり)に「炭塊」が発見され、1907年(明治40年)から、九州炭鉱汽船の経営により「崎戸炭鉱」の採掘が、蛎ノ浦島で本格化します。

1889年(明治22年)町村制の施行により、崎戸(さきと)村として、単独村制の自治体として発足しました。

1931年(昭和6年)崎戸村が、町制施行して「崎戸町」となります。

1943年(昭和18年)、崎戸炭鉱は年間100万トン強を算出し、従業員7500人を超え、崎戸町の人口も25000人を上回り、人口密度日本一と言われるほどのにぎわいを見せました。

1956年(昭和31年)、江島村・平島村が「崎戸町」に編入します。

1968年(昭和43年)には、いよいよ「崎戸炭鉱」が閉山し、人口が激減します。

平成17年(2005年)、崎戸町はほかの西彼町・西海町・大島町・大瀬戸町と合併して、「西海(さいかい)市」が誕生しました。

現在、崎戸中学校がある校区の住所は、長崎県西海市の崎戸町蠣浦郷・本郷となっています。

崎戸中校区の名所

崎戸中校区の名所

崎戸歴史民俗資料館

崎戸歴史民俗資料館

崎戸中学校区にある「崎戸歴史民俗資料館(さきとれきしみんぞくしりょうかん)」は、小高い丘にあり海の絶景をロケーションにしながら、無料で「島の捕鯨の歴史・崎戸炭鉱の歴史・炭鉱閉山後の歴史・製塩の歴史・島で育った作家の井上光晴氏」などについて学べる施設です。

そのほか、崎戸町の産業や、イワシクジラの骨格標本や、五島灘に生息する魚類のジオラマも展示されています。

出典:SAIKAI観光サイト

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